サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

二転三転する生き物

 長文の記事を書くと宣言しながら、早速その方針に飽きてしまった。

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 長文の記事を書くのもいいのだが、そうやって自らのブログの方針として掲げて、自縄自縛の状態に陥ってしまうと、パソコンを開いて一つの記事を仕上げることが無性に億劫に感じられるようになってしまった。言い方を換えれば、長時間残業の常態化によって、それこそ「成果が出るまで、切れ目なしに働き続ける」という古き良き社畜の精神に、搦め捕られてしまったような気がするのである。そうなると、文章がメリハリを失うのは、避け難い成り行きだ。

 やはり初心に帰り、いや、別にそれがブログを開始したときの「初心」という訳でもないのだが、毎日更新に再び取り組んでみようかと、心が揺れている。別にどっちでも構わない筈で、私がブログを連日更新しようが月に一度であろうが、世界にも他人にも関わりのない話だ。だが、自分自身にとっては、それなりに関心のある主題なのだとも言える。私的な落書帳に過ぎないとしても、それは私の人生の「部分」を成しているからだ。

 毎日更新を再開しようかと考え始めたのは、別にそれでアクセスアップを狙おうという魂胆ではなく、単純に自分自身の生活に一定の規則的なリズムを与えるのに、ブログの毎日更新というのが丁度いい手段であるという判断があるからだ。毎日、ブログの記事を書く時間を設けるということは(厳密に言えば、予約投稿を駆使しているので、必ずしも毎日文章を書いているという訳ではない)、ややもすれば済崩しに流れ、過ぎ去っていくばかりの怠惰な日常に、一つの境界線を刻むことに他ならない。それは私の日常に新鮮な休息の、整理整頓の時間を挿入するということだ。

 それにしても、我ながら方針の定まらないことに溜息が出る。過去の経験を振り返ってみても、私の魂には、何かを宣言した途端に、自らそれを裏切りたがるような天邪鬼の気質が若干備わっている。今もこうして記事を書きながら、突如として連日更新を断ち切ろうとし始めるかも知れない。それは誰にも分からないし、自分でも分からない。明日の自分は、何時でも「他人」に等しいものだ。だからこそ、書くことには意味があると言えるのだろう。放置しておけば、だらしなく流れ去っていくだけの「自分」という曖昧な存在に、一つの連続性を授ける為には、文章を書き遺すという手続きが重要な効用を発揮するのである。書くことで、私はその都度、自分の頭の中に浮かび上がった雑駁な想念に客観的な形態を附与することが出来る。そうした断片の累積が、長いスパンで眺めれば、一つの有機的な綜合として組み合わさっているように感じられるのだ。それが「日記」というものの崇高な役割であり、特殊な性質なのだろう。

 毎日書こうが、偶に書こうが、個人の都合で好き放題に方針を切り替えていけばいい、という考え方も、疑いなく正論である。だが、こういう私的な備忘録のような文章は、毎日積み重なっていくという事実自体に、その意義の根拠を有するのではないか。「一日だけ書かれた日記」のことを、世間は日記とは認めないだろう。それは「一日だけ書かれた日記」が、或る人間の総体的な姿を映し出す「鏡」としての役割を果たし得ないからだ。