サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「演歌」のメンタリティ

 所謂「演歌」や「歌謡曲」という名称で扱われる邦楽には、男を支え、苦労を堪え忍ぶ健気な「女」というイメージが頻出する。女性の社会進出が叫ばれるようになって久しい昨今、そういうイメージが古臭く感じられるのは止むを得ない。しかも、そうした社会的情勢の変化とは無関係に、演歌の世界では昔ながらの「男尊女卑」の定石が大事に受け継がれている。言い換えれば「男に付き随い、堪え忍ぶ女」の類型化されたイメージは、演歌という地方的な音楽ジャンルにとって、重要な成分の一つであり、演歌という領域の「境界線」を象徴する役割を担っているということだ。

 だが、私は別に演歌の抱え込んだ腐臭漂うアナクロニズムを罵倒しようと思って、この文章を草している訳ではない。興味深いのは、そのような演歌が一つの価値観と共に存在し、或る一つの社会的な秩序の中で大きな地歩を占めていたという歴史的な事実である。そこには明らかに男権主義的なファンタジーが濃密に漂っているが、その風潮は男性だけの力で築かれていた訳ではない。恐らく、そうした男権主義的なイデオロギーを内面化し、男に仕えることで依存的な満足を覚える女性が少なからず存在したことも、演歌的なファンタジーの一般化に拍車を掛ける要因として働いたのではないかと思われる。

 時代によって価値観は移り変わり、総てが過ぎ去った後では、過去の様々なイデオロギーは古臭く、致命的な誤謬と失錯に蝕まれているように見える。だが、現代の価値観を標準として過去の遺物を彼是と値踏みするのは、それほど困難な作業ではないし、倫理的な正当性を備えているとも言い切れない。男尊女卑のイデオロギーを、尤もらしい理由で論難することは容易いし、過ぎ去った日々の蒙昧さを嘲笑することも、誰にでも出来る。実際、演歌的なメンタリティが旧態依然の発想に彩られていることは、それが現実に熱心な愛好家を失いつつある事実によって明証されているのだから、今更その点を批判するのは、屍体に鞭打つことでしかない。

 これだけ男尊女卑のイデオロギーに対する批判的な意識が高まっている現代においては、演歌的なメンタリティは嘲弄と罵倒の対象でしかない。だからこそ、私の眼にそれは一種の考古学的な関心の対象物として映じる。只管に「男」を待ち続ける「女」のイメージは、現代では馬鹿げたファンタジーのように感じられるが、少なくとも数十年前には、そのようなイメージが生々しい説得力を孕み、多くの人々の心を揺さ振っていたのだ。その歴史的な事実は、単なる誤謬として片付けてしまえるものではなく、生きた人間の偽らざる心情として、堂々と実在していたのである。そのことが所謂「歴史のロマン」のように感じられるのは、無論ノスタルジーの一種に過ぎない。だが、私たちの暮らす時代の、最先端のライフスタイルも思想も感情も総て、数十年が経過した未来においては、誰にも理解されない奇怪な習俗のように受け取られてしまうであろうことを、忘れるべきではない。