サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「存在しないものだけが美しい」という理念 1

 「存在しないものだけが美しい」という理念の形態に就いて書いておきたい。

 予め注意を促しておくが、この「存在しないものだけが美しい」という命題は万人に公認され、あらゆる場面に普く該当するものではない。広範な領域において確認し得る強力な思想の様式であることは概ね確かな事実だが、私自身は決して「存在しないものだけが美しい」という命題を不用意に、あらゆる対象に適用すべきだとは考えていない。

  先日、新海誠監督の「君の名は。」という長篇アニメーション作品に就いて感想を記した。この記事は、そこにおいて繰り広げた思索の積み重ねの、ぼんやりとした残響のようなものである。「君の名は。」という作品は徹底的に「恋愛」のエートスだけを描き切っており、そこには「結婚」に象徴される現実的な地平との意図的な「切断」が介在している、というのが現時点での私の考えである。「恋愛」の論理は、常に「触れられないものを欲望する」という基本的な原則に従って駆動する。触れられないこと、思い通りに扱えないこと、現在の自分の居場所から遠く隔てられた存在に憧れること、これらが「恋愛」に固有の特殊なメンタリティの諸要素である。「君の名は。」という作品は、こうした「触れられなさ」を、物語全体を総動員することで極限まで高めようとしている。終幕において立花瀧宮水三葉は「触れる」ことに成功する訳だが(黄昏時の束の間の「接触」に関しては、「触れられなさ」を更に煽り立てる為の、いわば砂糖に投じられた微量の「塩」のようなものであると思う)、それは「君の名は。」という物語に与えられた一つの決着ではあるものの、作品の本質的な要素であると看做すことは適切ではない。

 こうした「恋愛」のエートスは、私たちの暮らす日常的な現実においては程良く中和され、適切な湯加減で発揮される場合が殆どであり、そうした現実との「妥協」を経由しなければ、「恋愛」のプロセスを「結婚」のフェーズへ軟着陸させることが出来なくなってしまう。しかし、架空の物語の中では如何なる抽象的な実験も、幻想的な飛躍も軒並み、許容される慣わしである。「恋愛」のエートスを極限まで高めたとき、人間の魂はどのような原理に到達するのだろうか? そのとき、人間は「存在しないものに憧れる」のが最も恋愛の情熱を燃え上がらせるに当たって「効率的である」という真理に蒙を啓かれるだろう。

 「恋愛」の熱情と興奮を最も高揚させる方法は「存在しないものに憧れること」である。それを「不可能性の希求」という具合に呼び換えても構わない。この点で、恋愛の情熱は宗教的信仰の情熱に酷似する。決して姿を現すことのない超越的な「存在」としての「神」に恋焦がれることは、所謂「恋愛」の情熱と原理的に同質なのである。

 ここから冒頭の命題が導き出されることになる。「存在しないものだけが美しい」という難解な語句は、要するに「存在しないものに憧れることが最もパセティックである」という命題に他ならない。「恋愛」の精髄を描き出すに当たって、そうした「不可能なものへの欲望」を極度に肥大させてみるのは、いわば美食の追求の涯に人工的な手段でフォアグラを作り出すようなものである。

 例えば「君の名は。」において、立花瀧宮水三葉が触れ合う機会は殆ど与えられていない(入れ替わりの状態を通じて相手の肉体や境遇を理解することは出来るが、それは独立した人格としての「相手」と触れ合ったことにはならないだろう)が、二人の相互的な恋情は寧ろ、そのような不自由な制限を科せられることによって一層、高められているように見える。恋愛においては「逢えること」よりも「逢えないこと」の方が遥かに重要な意義を帯びている。いや、もっと率直に言い切ってしまえば、恋愛の欲望は「存在しないものを欲望すること」ではないのか。

 三島由紀夫の「金閣寺」では、吃音によって外界との疎隔を感じながら育った「私」の特殊な精神的遍歴が描かれるが、その心理的な構造はまさしく、こうした「存在しないものへの欲望」によって占められている。それは「心象の金閣」への欲望という形で描かれているが、この「心象の金閣」は「現実の金閣」から生じたものではない。何故なら「私」は「現実の金閣」を目の当たりにする以前から「心象の金閣」への已み難い憧憬を募らせていたからである。この「心象の金閣」は「私」にとって至高の美の象徴に他ならないが、それは「現実の金閣」の物理的な美しさとは無関係である。

 尤も、この「現実の金閣」は常に「心象の金閣」の美しさに劣り続ける訳ではない。空襲の危機が齎す「滅亡の予兆」が、「現実の金閣」と「私」との審美的な関係性に変革を齎すのである。言い換えれば「現実の金閣」が存在しなくなるかも知れないという危険な兆候が、「現実の金閣」を「存在しないもの」として捉える契機を「私」に授けたのである。