サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「沖縄」という政治的な場所 2

 先日の記事の続きを書く。

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 前回の記事で、私は村上春樹の「ハンティング・ナイフ」という小説を読解するに当たって、作中に登場するアメリカ人の車椅子の青年を、どのように位置付けるのかという問題が、重要な鍵を握っているという見方を示した。今回の記事では、先ず彼に関する描写の一つ一つを蒐集し、吟味を加える作業を通じて、青年の造形の核心に迫ってみたいと思う。

 コッテージの一棟は四部屋に分かれていた。一階に二部屋、二階に二部屋。我々の隣の部屋にはアメリカ人の母子が宿泊していた。彼ら二人は、我々がやってくる前からずっとそこに滞在していたようだった。母親はたぶん六十歳前後、息子の方は僕らと同じ年代、二十八か二十九というところだった。二人とも顔がほっそりとしていて、額が広く、いつもまっすぐに口を結んでいた。これほどよく似た風貌の母子を、僕はそれまで見たことがなかった。母親はその年代の女性にしては驚くほど背が高く、背筋がまっすぐに伸びて、手足の動きもきびきびしていた。

 息子の方も身体のかっこうから推測すると、母親同様、背が高そうだったが、実際にどれほどの身長なのか、僕にはわからなかった。彼は車椅子に座ったきり、一度も立ち上がらなかったからだ。彼の後ろには常に母親がいて、車椅子を押していた。

(筆者註・本稿における「ハンティング・ナイフ」の引用は、新潮社発行の「めくらやなぎと眠る女」に収録されたバージョンに基づいている)

 この記述から導き出される何らかの明快な答えを性急に求めるのは差し控えて、先ずは如何なる種類の「問い」が抽出され得るのかを考える必要がある。

 最初に生み出される最も単純で素朴な問いは、この母子は何者なのか、ということであり、そもそも如何なる目的でこのコッテージに滞在しているのか、という点であるだろう。彼らはアメリカ人であり、母親はきびきびした所作の女性であり、息子は車椅子に乗っていて、恐らくは自力で歩行することの困難な状態に置かれている。

 このとき、私たちが注意しなければならないのは、この作品がフィクションであり、如何なる具体的な事実にも即していないという根本的な条件を失念しないことである。私たちは何処かに秘められている客観的な「事実」に到達する為の探索を行なうのではなく、何故そのように「書かれているのか」という作為=虚構の次元において「理由」を求めなければならない。この微妙な差異に充分に着目しなかった場合、私たちの探索が不毛な曠野を彷徨し続けることになるのは自明の理である。

 言い換えれば私たちは、何故、彼ら母子が「アメリカ人」なのか、という次元から探索の旅程へ踏み出さなければならないのである。何故、彼らが「アメリカ人」であり、「母子」であり、そして「車椅子」に乗っているのか、ということが文学的な探究においては重要な意義を帯びるのだ。

 この土地が「沖縄」であるという仮説を前提として踏まえた上で、議論を進めたいと思う。車椅子の母子は、語り手の「僕」同様に旅行者であり、この土地においては「異邦人」として定義されている。彼らは何らかの理由でアメリカを離れ、この異国の静かな海辺に滞在している。何故、彼らは異国の静かな海へ、母子二人で長期に亘って滞在しているのか。もっと言えば、何故「滞在しなければならないのか」。その理由に就いて、車椅子の青年自身が語っている部分を引用しよう。

「みんなが決めるわけです。あそこに一ヵ月いなさい、こっちに一ヵ月いなさいってね。そんなわけで、僕はまるで雨降りみたいに、あっちに行ったり、こっちに来たりしています。正確に言うと、僕と母は、ということですが」

 彼は家族の命令によって、様々な土地を転々と移動し続けている。それが如何なる理由に基づいているのか、作中において明確な理由が語られることはない。だが、彼が「雨降り」のように絶えず移動し続ける存在であることは、この「ハンティング・ナイフ」という小説においては不可欠の要素であると考えねばならない。彼らは常に移動を命じられ、しかもそれは自分の意志に基づくものではない。言い換えれば、彼らは一種の難民であり、流氓であるのだ。

 自分の意志に基づく行動の自由を持たないという母子の条件は、車椅子というアイコンによっても間接的に表象されていると私は思う。何故、彼が車椅子に乗る必要があるのか、それは無論、彼が自力で歩行出来ない肉体の持ち主であるからだ。しかし、文学的な解釈として眺めれば、そのような理由は厳密な妥当性を持たない。重要なのは、アメリカ人の青年から「自分の意志に基づいて行動する自由」を剥奪する為に、車椅子という虚構の条件が要請されたのだという具合に、いわば事物を反転させて捉えることなのである。

 自由を奪われ、決定権を奪われた存在としての母子は、際限のない「休暇」の日々を過ごすことを家族によって強いられている。彼らは無力であり、「不健康な人間」として定義された存在であるから、「休暇」以外に果たすべき責務が何もないのだと解釈することは充分に可能である。しかし、そのような解釈も、前述の理由に基づいて考えるならば、妥当性を欠いていることは直ぐに判明するだろう。彼らは何故、果てしない「休暇」を送ることを強いられているのか。その問いを反転的に捉えるならば、私たちは次のように命題を組み立て直さねばならない。自由を奪われ、無気力な休暇を送ることこそ、彼らに課せられた重要な役割なのである、と。

「さっき分業システムと言いましたが」と彼は続けた。「分業というからには、僕らにも僕らなりの役割みたいなものがあります。ただ与えられるだけの一方的な関係ではない。何と言えばいいのかな、僕らは、何もしないことによって、彼らの過剰さを補完しています。バランスをとっているんです。彼らの過剰さが生み出すものを、言うなれば、癒しているわけです。それが僕らの側の存在理由です。僕の言っていることがわかりますか?」

 自由を奪われた難民、自らの意志で行動する権利を剥奪され、永遠の「休暇」の日々に閉じ込められた人間という立場が、単なる「結果」ではなく、一つの明確な「役割」であることが、ここでは観念的な表現を通じて強調されている。重要なのは「何もしないこと」であり、それこそが彼らに課せられた使命なのである。だが、それは奇異な話ではないだろうか? 私たちが他者に何かを望み、求めるとき、敢えて「何もしないこと」を命じるような場面はそれほど多くない。「何もしないこと」が明確な役割として求められる立場、それは一体、何だろうか? (次回へ続く)

めくらやなぎと眠る女

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