サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「愚昧な子供」としての私

 読まなければならない、或いは端的に「読んでみたい」と思う本は幾らでもあるのに、いざ取り掛かると案外頭に入らなくて投げ出してしまったり、一冊の読書に長い日月を費やし過ぎて飽きてしまったり、といった経験は日常茶飯事である。昔は、つまり十代の頃はもっと、一冊の本を読み耽ることに慣れていたし、夢中になることも容易かったというのに、何時の間にか雑事に追われ、総てを忘れ去って書物の時空の渦中へ溺れるということが困難に感じられるようになっていた。

 無論、単純に少年時代は暇だったのだと、言ってしまえばそれだけの話で、部活も遣らず、勉強にも不熱心で、女誑しでもない十代の頃の私は、兎に角時間を持て余していた。特に夏休みなどの長期休暇は、余りにも遣るべきことが無くて退屈で死にそうだった。到底アクティブとは言い難い陰気な少年であった私は、本を読む為の時間を捻出する必要さえなかった。時間は幾らでも無限に氾濫していたからである。だが、それは単に私が非社交的で非活動的な性格であり存在であったということだけが、恐らくは理由ではないだろう。社会人になってから改めて痛感するのは、子供というのは輝かしい有閑階級であるという厳粛な事実だ。少なくとも私に限って言えば、高校卒業と大学入学の端境期に思い立ってバイトをしたいと言い出したら、父親から「学生が何故働く必要がある。金なら幾らでも出してやるから学業に専念しろ」と叱られるような家庭に育った。少なくとも現代日本の平均的な勤人に比べれば、団塊の世代の掉尾に位置する私の父親は裕福な男であった。私の母親でさえ、私が中学へ上がった頃に小遣い稼ぎの積りで働こうとしたら、父親から「俺の給料に不満があるのか」と叱られたそうだ。つまり、私は経済的な不自由というものを知らない少年期を過ごす僥倖に恵まれたのである。

 経済的な不自由に晒されることのない家庭に育まれた子供、これは無論、幸福の究極的な形態の一つである。私は大学を一年で中退して両親に無駄金を払わせたが、そういう暴虐無恥の所業に手を染めることが出来たのも、金の有難味も恐ろしさも学ばずに育ったことが背景にあるだろう。そして私には、無限に退屈な日月だけがたっぷりと与えられていた。大学へ入ってから、親の監視が余計に行き届かなくなり、私は本格的に「怠業」という悪習を覚えた。通学途中に乗り換える新宿駅で、目指すべき京王線の地下ホームへ往かずに、そのままふらふらと東口の繁華街へ彷徨するというのが、当時の私の御決りの行動規範であった。

 幼少期の私は、単純な愉しみと好奇心ゆえに、多くの本を手に取って貪った。十代後半の所謂「思春期」以降は、どうやって生きていけばいいのか、自分は何を欲しているのか、という切実で青臭い疑問に衝き動かされるように書物のページを捲った。大学をサボり、夏の日盛りの靖国通りや、新宿三丁目駅の近くのドトールで、飲み慣れない苦いアイスコーヒーと、キャスターマイルドを伴侶に選び、柄谷行人江藤淳浅田彰や、澁澤龍彦舞城王太郎イアン・マキューアンや、その他様々な書物を読み耽りつつ、私は何時も不可解な焦躁に追い回されていた。こんなことをしていて、何になるだろう。幾ら本を読んでも、私の人生そのものに纏わる個人的な真理の手懸りは、一向に見つかる気配もなかった。書物の中には様々な叡智が含まれ、困難な世界を渡り歩き、辛うじて生き延びる為に格闘してきた先人の息遣いが満ちていたが、それは私自身の呼吸の産物ではなかったからだ。私は私自身の選択と決断に基づいて生きる道程を定めなければならなかったのに、臆病な神経ゆえに、怠業という形で結論を延期し続けることだけが、当時の日常を形作る薄汚い摂理であった。私は何も決めず、総てを先送りにして、破局の日の訪れを免かれることだけに関心を示した。アルバイトに明け暮れ、稼いだ金を煙草や酒に費やして、親の苦衷など顧みようとも思わなかった。

 最近、改めてちゃんと本を読もう、その為の時間を確保しようという考えが強まってきた。一番の特効薬は、スマホの電源を切って遠くへ抛り出すか、出先ならば鞄の中に注意深く閉じ込めることだ。そうすれば、表層的な情報ばかりを薄皮を捲るように辿り続ける、あの空虚な浪費の時間を最小限に抑制することが出来る。細切れの時間の使い道に、スマートフォンは極めて有用な選択肢であろうが、指先を操って小さな画面に眼を凝らすことにばかり神経を遣っていると、何時まで経っても読書が進まないのだ。

 それは或る意味では、遠い少年時代、或いは「大人」以前の季節に今一度立ち帰る為には、必要な作業なのかも知れない。大人であることは、社会的な役割を引き受けることであり、言い換えれば「仮面」を上手に着脱する技術に習熟することだ。それは確かに人間的な成長においては必要な事柄だが、何時の間にか「仮面」を「素顔」と取り違えるような愚かな錯誤に囚われないとも限らない。私は何らかの役柄を演じる以前に、一個の奇怪な人間なのだから、そういう自分を忘れずに呼び覚まし続ける為には、読書というのは打って付けの営為なのである。夢中でページを捲ること、そして読み取った内容に就いて独善的な思索を巡らせること、それは私にとって必要な作業である。「愚昧な子供」としての私を常に頭の片隅へ鎮座させておくこと。そうしなければ何時か、「仮面」は生身の皮膚に吸いついて二度と切り離せなくなるに違いない。