サラダ坊主日記

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近代化の原理 2 (ミラン・クンデラ「小説の技法」に導かれて)

 ミラン・クンデラの「小説の技法」(岩波文庫)を読了したので、感想を書き留めておく。

 現代文学の最も重要な牽引役の一人に計えられ、フランツ・カフカの熱心で雄弁な擁護者としても名高いチェコの亡命作家ミラン・クンデラの手で綴られた、このカラフルで多様性に満ちた(ポリフォニックな?)書物は、単に「小説の技法」に対する純然たる関心を充足させるだけに留まらない、極めて広範な射程を有する刺激的で魅惑的な一冊である。

 クンデラの中心的な関心が「小説」或いは「小説の精神」に向かって集中的に傾注されていることは論じるまでもないが、それはクンデラが純然たる芸術至上主義の牙城に逼塞していることを意味するものではない。寧ろ彼が「小説の精神」という言葉=観念を媒介として捕捉し、読者に理解させようとしている問題の範囲は、極めて多岐に渡り、しかも「文学」の領域に留まるものではないのだ。

 クンデラは「小説の精神」が「近代」という歴史的な理念と容易に切り離し難い「実存の形式」であることを強調する。そして「小説の精神」が、あらゆるものを計量し、数値に置き換える合理的な「自然科学の精神」と、いわば対蹠的な双生児の関係に置かれていることにも、読者の注意を促している。

 デカルト的な合理性に対して、クンデラが特別な関心と敬意を以て導入しようと試みるのは、あの「ドン・キホーテ」を著述したスペイン人作家セルバンテスの哄笑を伴った「相対性」の理念である。クンデラにとって「小説」は、デカルト的な合理性が目指す「明晰さ」を覆し、震撼させるような精神の領域として措定されている。「小説」の世界においては、あらゆる固定化された権威、樹立された絶対的な信仰、単一の真理といった諸観念が、その堅牢な礎石を失い、多角性と相対性の強烈な磁力によって解体されることを定められている。クンデラが「小説」という芸術的形式に極めて重大な意義を認め、その積極的な擁護に直向きな姿勢を示すのは、このような「小説の精神」に魅せられているからであって、必ずしも世間的に認知された総ての「小説」の実作が、彼の審美的且つ倫理的な基準に合致すると言える訳ではない。

 因みに文芸批評家の江藤淳は「作家は行動する」(講談社文芸文庫)という書物の中で、散文という形式に固有の「相対化の精神」と、そこから分泌される「ユーモア」に情熱的な口調で言及している。そこにクンデラの考え方と共通する認識の原理を見出すのは、無理からぬ推論である。

 この「小説の技法」という示唆に富んだ書物において、クンデラの思想の中心的な原理を明瞭に示しているテクストを選ぶとしたら、恐らく劈頭の「評判の悪いセルバンテスの遺産」が、その最も優れた適任者であると言い得るだろう。ここには、クンデラが「小説の精神」という観念を通じて解き明かそうと試みている世界の姿が、極めて論理的に、丁寧に結像させられているからだ。

 神がそれまで宇宙とその価値の秩序を統御して善悪を区別し、それぞれの事物に一つの意味をあたえていた場所からゆっくりと立ち去ろうとしていたとき、ドン・キホーテは家の外に出てみたものの、世界を世界として認識することがもはやできなくなっていた。〈最高審判者〉がいない世界は、突如恐るべき両義性をまとって現れ、神の唯一の〈真理〉は多数の相対的な真実に解体されて、人間たちがそれを分かちもつことになった。このようにして近代の世界、それとともに近代のイメージとモデルとしての小説が誕生した。

 「近代」の誕生に関する、この神話的な荘重さを湛えた簡潔な文章は、クンデラの文学的野心が奈辺に差し向けられているのかを、極めて明晰に照らし出していると言える。「小説」と「相対的な真実」は常に結び付いており、それは「真実の一義的な確定」を目指す科学的な合理性と不可分の関係に置かれている。「相対的な真実」から出発すること、それが所謂「近代」の本質であり、例えばジョン・スチュアート・ミルの「自由論」に織り込まれているような思想もまた、こうした「近代」の原理にその淵源を有しているのである。

 だが、この「近代」という歴史的原理、つまり「神」という名の「最高審判者」の喪失から産み落とされた重要な「果実」は度々、反動的な逆襲の劫火に晒され続けてきた。私たちは全体主義のファナティックな画一的支配が齎した驚愕すべき惨禍に就いて、歴史的な教訓を既に授かっている。言い換えれば、この「近代」という原理の産み出した「果実」は、常に致命的な腐敗と慢性的な浸蝕の危殆に瀕し続けているのであり、そもそも私たちにとっての「最高審判者」の地位に鎮座し得る存在は、超越的な「神」とは限らないのだ。「相対的な真実」或いは「恐るべき両義性」は、極めて容易に見限られ、人間の社会から放逐される懸念を孕んでいる。

 人間は善悪が明確に区別できる世界を願う。というのも、理解する前に判断したいという御しがたい生得の欲望が心にあるからだ。この欲望の上に諸々の宗教やイデオロギーが基づいている。これらは相対的で両義的な小説の言語を明白で断定的な言説の形に言い表せる場合にしか小説と和解できず、つねに誰かが正しいことを要求する。アンナ・カレーニナが偏狭な暴君の犠牲者なのか、カレーニンが不道徳な女性の犠牲者なのか、そのどちらかでなければならないのだ。あるいは、無実なKが不正な法廷によって粉砕されるのか、裁判所の背後に神の正義が隠れているのだからKは有罪なのか、そのどちらかでなければならないのだ。

 この「どちらかでなければならない」ということの内に、人間的事象の本質的な相対性に耐えることができない無能性、〈最高審判者〉の不在を直視できない無能性が内包されている。このような無能性のために、小説の知恵(不確実性の知恵)を受け容れ、理解することが困難になるのである。

 「不確実性の知恵」という言葉で表現される思想と精神の形式が、所謂「小説的なもの」=「小説性」の本質を形成している。そこでは「絶対的な真実」など認められず、従って究極的な権威というものが決して成立しないように構造化されていると言い得る。こうした理念の称揚が、苛烈な共産主義支配下に置かれた小説家の切実な「思想」であることに留意すべきであろう。無論、クンデラ自身は、そのような「伝記的事実」によって作品を解釈されたり、その本質を断定されたりすることを「小説性」の名の下に斥けるだろうが、彼にとって「小説」が単なる芸術の範疇や細目に留まるものではないことを理解する上では、全体主義社会との「実存」における関係は注目に値する要素である。

 とはいえ、もしセルバンテスが近代の創始者だとすれば、彼の遺産の終焉はたんに文学的形式における交替以上のものを意味するはずだ。それは近代の終焉を予告する。だからこそ私には、小説の死亡通知を口にする者たちのお目出たい微笑が軽薄に見えるのだ。それが軽薄なのは、私が人生の大半を過ごした、通常全体主義と呼ばれる世界で小説の死、(発禁、検閲、イデオロギー的圧力などによる)小説の熾烈な死をすでに見とどけ、経験したからに他ならない。このときに小説は滅びうる、西洋の近代と同じように滅びうることがはっきりと示された。人間的事象の相対性と両義性に基盤を置く世界のモデルとしての小説は、全体主義の世界とは両立できない。

 この一節を徴すれば、クンデラの「小説」に対する異様な執着が、単なる芸術上の審美的な嗜好の次元に収まるものではないことは直ちに明らかになるだろう。彼にとって「小説家」であることは、倫理的な抵抗の本質的な要素であり、従って実存的な思想に他ならないのである。

 

小説の技法 (岩波文庫)

小説の技法 (岩波文庫)