サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

境界線の彼方へ 村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」(第3部 鳥刺し男編)

 村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」(第3部 鳥刺し男編)を読了した。

 この錯綜した筋書きを持つ長大な物語の概要を、何かしらの理論的な構図の中に縮約して織り込めるという自信は、少なくとも現在の私の持ち物ではない。敢えて私見を述べるならば「未整理の作品」という形容が相応しいように感じられる、この「ねじまき鳥クロニクル」という小説においては、総ての伏線や謎めいた要素が充分に回収されたり解決されたりしているとは言い難い。だが、それらの整理されない細部と細部の整合性を確保する為に強引に理路を切り拓こうとすれば、この小説が小説として構築された意義が失われてしまうようにも思える。

 「ねじまき鳥クロニクル」の主要な筋書きが、失踪した妻クミコとの平穏な生活の「奪還」に存することは確かである。だが、その主要な筋書きに限ってさえ、それが具体的にどのような構造的真実を指し示しているのか、明瞭に把握することは困難である。読者は自らの曖昧な感受性、或いは主観性を重要な通路として用いることで、この物語の多義的な曖昧さの樹林へ分け入るしかない。

 この物語が重視している主題は多岐に渡っている。それは「暴力」であり、「分裂」であり、「穢れ」であり、「場所」であり、「暗闇」である。それらの決して一義的とは言い難い重層的な言葉の群れを組み合わせて、作者は壮大で複雑な伽藍を築き上げている。それらの主題は決して明瞭な結論や図式のようなものには結び付かず、そのまま併存を命じられているように見える。言い換えれば、そこには不可解な「夢」を解析するような類の困難と、具体的な手応えの欠如が絶えず附随している。

「つまりね、今回の一連の出来事はひどく込み入っていて、いろんな人物が登場して、不思議なことが次から次へと起こって、頭から順番に考えていくとわけがわからない。でも少し離れて遠くから見れば、話の筋ははっきりしている。それは君が僕の側の世界から、綿谷ノボルの側の世界に移ったということだ。大事なのはそのシフトなんだ。もし君が本当に誰かほかの男と肉体的な関係を持ったとしても、それはあくまで副次的なものに過ぎない。見せかけに過ぎない。僕が言いたいのはそういうことだよ」(P537)

 この「僕」の科白はそのまま「ねじまき鳥クロニクル」という、平明な文章で綴られた難解な物語の、簡明な概略であるように聞こえる。重要なのは「二つの異質な世界」における「移行」であり、定められた厳格な「境界」を踏み越えるという所作である。実際、語り手の「僕」は「井戸」の奥底に潜ることで「壁抜け」という奇妙な体験を実行に移すことになる。彼は「夢」と「現実」の境界線を乗り越えて往還し、重なり合う二つの世界に向かって自分自身を分裂させる。

 こうした重層化と越境のモチーフは、村上春樹という作家にとっては恐らく極めて重要な意義を有しているに違いない。「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」でも「海辺のカフカ」でも「1Q84」でも、異質な世界の不可解な繋がり、或いはその併走が、物語を駆動する根本的な原理としての役割を附与されているからだ。

 自分の信じている日常的=経験的な現実が、異質な世界と重なり合って存在しているという一種の強迫的な観念は、村上春樹の紡ぎ出す物語においては、本質的で堅牢な枠組みとして機能している。それは日常的な私生活の平穏な性質に筋金入りの愛着を示す村上春樹という作家にとって、何を意味するのだろうか? 彼は平穏な私生活の恐るべき脆弱さに就いて、総毛立つような危機感を有している。それは極めて簡単に破壊され得るものであり、外部から到来する不可解で想定し難い危機の前に、呆気なく覆され、二度と後戻りすることの出来ない潰滅的な状況へ追い遣られてしまう。そうした脆弱な平穏に対する作家の個人的な執着が必然的に、そのような平穏を浸蝕する「異質な世界」への過敏な意識を育むのは、決して理解し難い現象ではないと言えるだろう。

 簡単に破壊される脆弱な私生活、個人的な領域、それが村上春樹の創造する文学的な、或いは「想像的な自我」の立脚する重要な倫理的根拠である。そして「ねじまき鳥クロニクル」においては、そのような性質の想像的自我に対して、考えられる限りの不可解な惨劇が降り注ぐことになる。彼は様々な外在的暴力の到来によって、個人的な領域を徹底的に、致命的に毀損されてしまう。極めて雑駁な要約を行なうならば、この物語は外在的な暴力の象徴としての「綿谷ノボル」を襲撃し、昏倒させることで、一応の解決を示したように見受けられる。だが、それを根本的な解決として承認し得る読者は殆ど皆無に等しいのではないだろうか。綿谷ノボルの死は、個人的な領域を脅やかす巨大な「悪」の消滅に直結すると言えるだろうか? そもそも、綿谷ノボルという人物の「邪悪さ」の内実は、明瞭に描き出されていると言えるだろうか?

 恐らく根本的な意味で、この「ねじまき鳥クロニクル」という小説は未完成の作品であり、文学的な過渡期を乗り越える為に要請された困難な苦闘の足跡のようなものであると言えるだろう。飽く迄も独断的な私見に過ぎないが、当時の作者は、個人的な領域への頑迷な執着(それ自体の是非を論じるのは無益である)を手放すという形で、倫理的な成熟へ向かいつつあったのだ。それは唐突な印象と共に挿入される「戦争」の記憶によっても傍証される。「戦争」が、個人的な領域とは無関係に、寧ろそれを圧倒的な権力によって踏み躙り、浸蝕するような禍々しい記憶として幾度も語られるのは、作者の倫理的な格闘の存在を暗示している。彼は「自分自身」の問題だけに意識を集中するような実存の形式が、根源的な障碍を抱えていることに、その眼差しを向けている。恐らく、そうした衝動は、この物語を書き始めた当初から意識され、企図されていたものではなく、第三部に当たる「鳥刺し男編」を執筆する過程を通じて明瞭に曝露されたのではないだろうか。第一部「泥棒かささぎ編」と第二部「予言する鳥編」においては、物語の進行や構成、文体の口調などは未だ、個人的な領域に逼塞する如何にも村上春樹的なメンタリティを濃密に帯びているが、第三部「鳥刺し男編」は明らかに、それまでの物語とは異質な雰囲気と構造を備えている。概ね「僕」の一人称で綴られてきた物語に、週刊誌の記事の引用や、笠原メイの手紙、或いは「真夜中の出来事」と題された三人称のパートなど、多様な表現の形態が一挙に混入し始めるのだ。この重要な変貌は、作者のメンタリティの倫理的な変貌と、緊密な相関性を有しているように思われる。

 個人的な領域から、公共的な領域へと移行することで、物語の構造的な原理に重要な訂正と変更が加えられる。この変貌は決して完璧に成し遂げられているとは言い難い。寧ろ作者自身が、突如として押し寄せてきた倫理的な難問に混乱しているように感じられるほどだ。だが、作者は断じて惰弱な撤退を選ぼうとはしていない。彼は困難な問題に立ち向かい、辛うじて生き延びることに成功した。本当の戦いの始まりは「ねじまき鳥クロニクル」以降の作品群に持ち越されることになるだろう。それは「自己」という閉域の限界を打破する為の、凄絶な死闘=私闘の記録である。

 

ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編 (新潮文庫)

ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編 (新潮文庫)