サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

書くことで癒やされるものがあるのならば

 今、僕は語ろうと思う。

 もちろん問題は何ひとつ解決してはいないし、語り終えた時点でもあるいは事態は全く同じということになるかもしれない。結局のところ、文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎないからだ。(村上春樹風の歌を聴け」)

 確かに書くことは明確に何かを救済したり、物事に抜本的な解決を齎すような手段ではない。それは経験的に自明の事実である。書くことによって、直接的に状況の打開、人生における種々の具体的な「困難」の克服が達成されることは殆ど有り得ない。例えば巨額の借金を抱えた人物が、死に物狂いで書き綴った小説が空前の成功を招来し、転がり込んだ印税で借銭を一挙に清算した、などという通俗的な奇蹟が実現したとしても、それは果たして書くことそのものに固有の「救済」であると言えるだろうか?

 或いは、そうだと言えるかも知れない。若しもそんな奇蹟的な魔術が成し遂げられるならば、確かに書くことは直接的な仕方で、生きることの「困難」を一つ、実際に解決したということになるだろう。だが、それは書くことでなくても別に構わない筈だ。何か事業を興してもいいし、何処かへ勤めて懸命に額に汗して地道に金を稼いでも良いし、あらん限りの財産を悉く売り払ってもいいし、血族の脛を思い切って齧ってもいい。経済的な収入を得るという目的に照らし合わせたとき、書くことは特別に合理的な方法であるとは言い難い。

 にも拘らず、人は文章を書く。尤も総ての人間が文章を書き殴ることに深甚な歓びを見出す訳ではない。いや、文章を書くことが生きることの一部を成している人にとっても、執筆という営為は決して純粋な喜悦に満ちた、極端に肯定的な何かという訳ではない。書くことによって、直接的な歓喜が得られる局面というのは、極めて限定的な奇蹟であるに過ぎない。にも拘らず、人は何かに憑かれたように万年筆の尖端で原稿用紙の表面を削り取り、絶頂を迎えたピアニストのように荒々しくキーボードを指先で叩きのめす。そうやって紡ぎ出される文章の社会的な価値、或いは客観的な意義を問うのは、不毛な企てなので差し控えておこう。少なくとも、書かれた文章は、書き綴った当人の精神に対しては何らかの価値を有しているものなのだ。

 村上春樹の処女作である「風の歌を聴け」は如何にも処女作らしい雰囲気と体裁を備えている。そこには「書くこと」それ自体への言及があり、実験的とも思える文章の断片が気儘に配列されている。だが、彼は何かを語ろうとして、結局は何を語ればいいのか、未だ把握出来ていないように見える。何かを語らねばならないという衝動が、語るべき何かに先行して存在している。これは、書くことに親しみを持たない人々の眼には、随分と倒錯的な事態のように映じるだろう。書くべきことや書きたいことが見えないまま、書きたいという衝動に引き摺られて走り出すとは一体、如何なる酔狂なのか? 何の合理性もない奇怪な悪趣味、それが書くことの内実ではないのか? こうした見解には無論、頗る堅牢な説得力が内包されている。書きたいことが何なのか見えないのに、わざわざ文章を書いて何の利益が得られるのか、という至極尤もな疑問に対して、きちんと理解してもらえるような性質の回答を返すことは案外難しい。

 だが、書くことの欲望に憑依された人間にとっては、こうした健全な問いは議論にも値しない「愚劣な問い」であるに過ぎない。書きたいことが何なのか分からないからこそ、書くことの欲望は無際限に亢進する。これは一部の人々にとっては自明の摂理であり、崇高な命題である。これは生理的な欲求であるというよりも、観念的な欲望であろう。空腹そのものは、胃袋が満たされてしまえば自ずと終息する。だが、美食に対する欲望は満たされれば満たされるほどに先鋭化の階梯を駆け上がっていき、決して最終的な充足には到達しない。そこには永遠の輪廻だけが存在し、人は決して涅槃を知ることがない。

 「風の歌を聴け」の新鮮な読後感は、恐る恐る試みられ、その効果を確かめられつつある言葉の奇妙な軋轢によって齎されている。作者は既に世間へ流通している文章の一般的な様式を理解していないし、満足もしていない。従来の文脈では捉えられない固有の何かを把握しようと努める不透明な衝動が、息継ぎを知らない泳者のように、途切れ途切れのシークエンスを形作る。その断章に映り込む、作者の乾燥した抒情が、時折私たちの眼球を晦ませる。

 書かずにはいられない、或いは書くことによってのみ到達し得る特別な悦楽の領域が存在すると信じずにいられない人々、その殆ど宗教的な信憑が燃え尽きることはない。それは燃えれば燃えるほどに愈々飢渇の度合を深めていくのである。

 

風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)