サラダ坊主日記

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抽象と断罪 三島由紀夫「午後の曳航」

 三島由紀夫の『午後の曳航』(新潮文庫)を読了した。

 この作品に限らず、三島文学の普遍的な特質と言える要素なのかも知れないが、今回「午後の曳航」を通読して改めて感じたのは、その文体や構成の根本的な「明晰さ」である。様式美と言い換えてもいい。三島由紀夫の書き綴る文章は、時に難解な対象や内容を含むことがあっても、絶えず驚くべき「明晰さ」に裏打ちされている。

 いつも言うように、世界は単純な記号と決定で出来上っている。竜二は自分では知らなかったかもしれないが、その記号の一つだった。少くとも、三号の証言によれば、その記号の一つだったらしいのだ。(P156)

 この「首領」の科白はそのまま、三島由紀夫の創造する文学の特性に対して与えられた明敏な要約のようにも感じられる。「世界」を「単純な記号と決定」に還元しようとする認識的な努力、或いは原理は、三島由紀夫という作家の本質的な要素を成していると私は考える。

 本作において重要な役割を担う人物である塚崎竜二が「記号の一つ」であるという言い方は、殆ど作者の手の内を意図的に曝露したような表現である。彼は単なる生身の人物として写実的に生み出され、造形されたのではなく、一つの抽象的な観念の体現者として描かれている。彼は物語の典雅な構造が要求する役割に応じて、具体的な血肉を授かった存在であり、従って彼には固有の実存のようなものはない。これは竜二に限らず、この「午後の曳航」という極めて技巧的な傑作に登場する総ての人物に共通して指摘し得る特性である。

 三島由紀夫が小説の執筆に際し、事前に結末の一行を決めた上で創作に着手する習慣の持ち主であったという話を聞いたことがある。作者が故人である以上、その真偽を確かめる術は最早存在しないが、如何にも三島由紀夫らしい挿話には違いない。小説の世界に対して、三島由紀夫という人物は極めて厳格で専制的な指揮官、絶対的な造物主の地位を絶えず堅持している。これは根拠のない皮相な私見に過ぎないが、彼にとって、個々の登場人物の実存というのは、それ自体の固有の位相を持たない、単なる媒体のようなものであった。少なくとも彼は、自分の筆先が紡ぎ出した小説の人物に独自の人格や固有性を認める必要を持たなかっただろう。或る意味で、彼は論文を書くような姿勢で小説の執筆に取り組んでいたように見える。

 彼の小説は非常に精緻な心理的描写を満載しており、描き出される登場人物の複雑な心情には必ず堅牢で饒舌な理窟が附随している。それは三島が人間の心理的側面に異様な関心を有し、卓越した観察眼を発揮していたことの反映であると同時に、彼があらゆる人間の心理を「解釈可能なもの」として位置付けていたことの反映であると言える。言い換えれば、彼は常に「世界」を「単純な記号と決定」として捉えることを自らの精神的な原則として採用していたのである。そのような世界観が、彼の文学の異様な「明晰さ」を形成する根本的な要因であることは論を俟たない。

 三島の文学には一片の謎も不合理も存在しない。何故なら、作者が作品に対して絶対的な独裁を布き、如何なる不条理な要素も残らず排斥され、摘出されてしまっているからである。作者の眼には、作品の総ての要素が明瞭な可知性を伴って映じている。恐らく彼は「訳の分からないもの」が大嫌いなのだ。どんな事物も何らかの方法で説明が可能であるという根強い信憑が、三島の明晰な理性を根底から支えている。こうした作家としての特質は、例えば村上春樹のようにいつでも小説を書きながら「途方に暮れている」ように見える作家とは全く対蹠的なものである。「ねじまき鳥クロニクル」のような壮大な物語を書くとき、恐らく村上春樹は自分でも訳の分からない巨大な、錯綜した「何か」を相手取ってペンを走らせている。最終的に自分の生み出した物語が何処へ辿り着くのか、村上春樹はきっと理解していないだろうし、総てを書き終えた後でも、何故、自分がこんなものを書いてしまったのか、明瞭に捉えることは出来ずにいるに違いない。村上春樹は自分の作品を、自分の理性や世界観に対して完全に従属させることが出来ない。だが、三島由紀夫は総てを己の支配下に置き、厳格な統制によって物語の不可解な側面を扼殺している。その意味で、彼の小説は作者の実存から独立して存在することが出来ない。言い換えれば、彼の小説は常に彼の思想の説話的な翻訳として存在し、機能することを強いられている。

 誤解を避ける為に附言すれば、私は両者の個性を比較して、その優劣を論じたいと考えている訳ではない。それぞれの特質を浮き彫りにすることが私の個人的な思索の掲げる企図である。そして私の考えでは、三島の文学的才能は小説よりも評論に向いている。どんな不可解で難解な代物であっても、何とか腕尽くでそこに論理の野太い管を敷設し、何らかの「意味」が滞りなく流通するように努めるのが評論家の生業であり、曲がりなりにも社会的な使命であるとするならば、三島の「世界」を「単純な記号と決定」に還元しようとする強靭な性向が、評論家の役割に最適の資質であることは明瞭であろう。私はその異様な明晰さを敬愛している。だが、余りにも総てが見え透いている小説、総てが予め定められた筋書きに則って運ばれる小説、卑俗な表現を用いれば「談合」のような小説が、普遍的な生命力を未来に向かって保ち得るかは疑問であると言わねばならない。

 三島由紀夫の小説は達者な「描写」を随所に含んでいる。しかし、それらの描写は総て、小説を支配する論理の「説明」として象嵌されており、描写そのものが超越的な強度を発揮することは原則として有り得ない。また、少年たちが竜二の「堕落」を批判し、処刑に踏み切るという背徳的な筋書きも、余りに明瞭な理窟に従って構成されている為に、その本質的な不穏さが鈍って見えることも事実である。極めて巧妙に綴られた作品であることは疑いを容れない。だが、この作品の性質や構造が総て、予め作者によって残らず簡潔に説明されてしまっているという事実は、この作品の生命力を衰弱させる方向へ働くだろう。尤も、作者はそれでも別に構わないと開き直った上で、徹頭徹尾、優れた物語作家としての業務を完遂したに過ぎないのかも知れない。何れにせよ、得難い傑作であることは紛れもない事実である。

午後の曳航 (新潮文庫)

午後の曳航 (新潮文庫)