サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「小説」と「人事」

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 偶には趣向と気分を変えて、敬体の文章で記事を書いてみたいと思います。

 特に深い意味はありません。単なる気分の揺らぎの問題です。

 気持ちとしては、演壇に登って一席弁じているような感覚です。

 

 御覧の通り、「小説と人事」という表題を掲げて、この記事を書き起こした訳ですが、この場合の「人事」という言葉は、企業などの法人で一般的に用いられる狭義の「人事」を指すのではなく、もっと広範な領域を、曖昧且つ多義的に指していると捉えて頂きたいと思います。

 小説というジャンルは、所謂「文学」のサブカテゴリーとして位置付けられ、詩歌や戯曲などよりも需要の大きい様式として幅広く世間に流通している訳ですが、そこには何となく歴史的に培われてきた暗黙の規律のようなものがあります。しかし、多くの作家や読者が繰り返し訴えてきたように、原則として小説は無際限に自由なジャンルです。何となく培われてきた暗黙の規律を存分に踏み躙っても、小説として個別の作品を成立させることは充分に可能です。例えば、極めて一般的で卑俗な例を挙げれば、多くの読者は(或いは作家も)、小説には必ず「風景描写」のようなものが必要であると信じ込んでいるように見えます。虚構の世界へ読者の想像力と認識力を導き入れるに当たって、架空の世界の事物や風景に関する具体的な表現を、一種の手懸りのように作品の内側へ刻みつけ、仕込んでおくことは、確かに重要な意義を有する作業であるには違いありません。ですが、それが小説を成立させる為の絶対的な要件であり、それを省けば直ちにその作品は「小説」の肩書を名乗る権利を喪失してしまうのかと問われれば、答えは「否」ということになるでしょう。

 描写ではなく、徹底的に「説明」だけで構成された小説作品が存在する可能性は皆無ではありませんし、私が無知ゆえに咄嗟に具体的な実例を思い浮かべられないだけで、それは既に存在しているのかも知れません。少なくとも、所謂「リアリズム」(=写実主義)の理念が、常に絶対的な規矩として信奉されなければならないという文学的な価値観は、既にその絶対的な威信を手放した筈です。

 小説が小説である所以、つまり「小説性」とは何かという古くて新しい問題には、多面的な解釈の糸口が備わっています。その一つの切り口を、次のような命題に纏めることが可能であると私は信じます。

 「小説は、必ず人間に就いて書かれている芸術的様式である」

 直ちに反論が寄せられることは想定の範囲内です。世の中には、動物を主役に据えた小説(それは多くの場合、児童文学の範疇に含まれていますが、例えばオーウェルの「動物農場」のように、必ずしも子供向けとは言い難い毒気を孕んだものも存在しています。つまり、それらの作品を単なるメルヘンとして斬り捨てるべきではないということです。因みに、私は児童文学と呼ばれる作品の芸術的価値を疑っている訳ではありません)が無数に存在しており、もっと実験的な作品としては、自然現象や無生物に語らせている作品も存在しているではないか、という反駁は、恐らく誰の頭にも即座に浮かび上がる簡明な違和感であると言えるでしょう。確かに、人間以外の存在を主役、脇役に据えた小説は世界中に氾濫しています。しかし、それらの作品が、人間ではないものを擬人化せずに小説の中の「想像的自我」として描いた実例が、かつて存在したでしょうか? 無学な私には、一つの実例さえ心当たりがありません。

 小説の中に登場する何らかの「想像的自我」=キャラクターが、人間として設定されているかどうかという問題は、極めて表層的な意義しか含んでいないことに、私たちは注意を払わねばなりません。そもそも小説に登場するキャラクターが、経験的な事実に取材していようといまいと、本質的に架空の存在であることを考慮すれば、そのキャラクターが人間であるか、妖怪であるか、紙切れや石ころであるか、そんなことは重要な問題ではありません。また、仮に擬人化されることのないキャラクターが登場するとしても、その非人格的存在だけで小説の時空が隅々まで埋め尽くされる見込みは、皆無に等しいと言い切って差し支えないのではないでしょうか。

 どんな小説も、煎じ詰めれば「人間」に就いて語っているという原理は、いわば「小説性」の本質に関わる問題です。小説というジャンルは常に、人間という奇怪な生物に対する烈々たる関心に貫かれており、たとえどんな事物を題材に選んだとしても、そこには必ず「人間の実存」に対する深甚な探究心が介在しています。それは、絵画や写真、彫刻、音楽といった芸術的分野とは根本的に異質な特徴であると私は思います。小説と同じく、極めて濃厚な「物語」の成分を有するジャンルであると看做されている映画においてさえ、例えば動物の生態に関する純粋なドキュメンタリーとして構成される余地を充分に保持しています。しかし、小説がそのような純粋な科学的記述の塊として綴られたとき、そこに「小説性」の成分を見出すことは不可能に等しいでしょう。それはドキュメンタリー、或いは客観的で中立的な記述の束であって、小説が小説であることの根源的な条件を満たすものであるとは言えません。

 何故、小説という芸術的事象は必ず「人事」を巡って生起するのでしょうか。それは小説という様式がそもそも、私たちの絶えざる関心事である「人間」の実存的な側面に光を投げ掛ける為に発明された媒体である為だと、差し当たって仮定することは可能であると思います。小説は例えば、人間を超越した存在としての「神々」や「英雄」に就いての夥しい物語、つまり神話や民族的な伝承、種々の叙事詩に対するシニックな批判的視座を含んでいます。それは決して小説が「神々」や「英雄」に対する素朴な敬意を軽蔑している為に形成される特質ではありません。重要なのは、小説という様式があらゆる題材を「人格化」した状態で捉えようとする根源的な性向を孕んでいるという事実に眼を向けることです。もっと一般的な表現を用いるならば、小説家は常に森羅万象を「擬人化」して解釈しようと試み続けている人種なのです。

 無論、それは小説家が動植物や時には無生物に対して「人間らしい物言いを演じさせる」ことに強い関心を懐いているという意味ではありません。総ての小説家が、一種の「寓話の語り手」であると強弁したい訳でもありません。私が言いたいのは、小説という西欧近代の発端において生み出された文学的様式が、あらゆる対象を「人間」との関わり合いにおいて捉えようとする性質を不可避的に孕んでいるという素朴な事実です。小説家は決して純粋で客観的な「存在」に本質的な関心を示そうとは企てません。様々な風変わりな衣裳を身に纏っていたとしても、小説家の指先が紡ぎ出すのは常に「人間」の可能的な側面であり、実存の多様な諸形態なのです。