サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「正論」に就いて

 「正論」は凶器のようなものである。無論、これは一種の極論に等しい命題だ。如何なる正しさとも無関係に、己の実存を歩み続けることは簡単ではない。如何なる正しさも肯わないままに、自分の人生を切り拓いたり、苛酷な試練に挑戦したりすることは不可能である。だが、そうした経験的事実を踏まえた上でも、私は「正論」が凶器であることを信じて疑わない。

 正しさの主張は、或いはその論理的な立証は、他者を屈服させる為の暴力的な装置として存在する。「正義」が人の数だけ存在することは既に広く知られた「真実」であるが、そうした原理原則に絶えず依拠しながら、日々の生活を営むことは酷く難しい。私たちは「主観」と「客観」の矛盾の中に投げ込まれている。自信を持って人生の行路を歩む為には、己の感じた主観的な事実に対する絶対的な肯定を貫かねばならない。しかし、自分の所持している「真理」が、結局は主観的な相対性の渦中に置かれていることを同時に認識していなければ、如何なる自信も不毛な「狂信」と見分けがつかなくなるだろう。この厄介な矛盾は、私たちの人生に植え付けられた、決して覆すことの許されない根源的な両義性である。

 「正論」を振り翳して相手の弱点を苛むこと、それは相手を打ち倒す為の手段としては非常に有効である。憎むべき相手を刺殺する為に、言葉の匕首を研ぎ澄ますことは、世間では少しも珍しくない類型的な行為である。だが、私たちは時に、そうした危険な凶器を慈しむべき相手に突き付けてしまう。それが如何なる稔りを齎すのか、充分な検討を加える手間を惜しんで、あたかも通り魔のように「正論」の切っ先をぎらりと燦めかせてしまうのだ。大抵の場合、その愚かしさを悟る頃には、既に不毛な流血が地面を濡らしてしまっている。

 自分の正しさを信じることは個人の勝手だ。しかし、自分の正しさを相手に承服させようとするのは、越権行為であると言える。自分の信じる正しさを、他人が共有してくれるかどうかは、完全に他人の裁量に委ねられた問題である。だが、私たちは直ぐに自分の信じる正しさの「普遍性」を希求してしまう生き物であるから、少し気を緩めただけで容易く慎重な自制心を失ってしまう。どう考えても正しい、非の打ち所のない推論の涯に辿り着いた答えを、他人が幼稚な理由で峻拒するとき、相手の愚かさを嗤笑せずに持ち堪えられる者は、本当の意味で優れた人間である。言い換えれば、それは他人が愚かである権利を承認するということであり、翻って己の愚かさを肯定することに等しい。正義という熱狂的な麻薬に手を染めるなと言いたい訳ではない。正しさが相対的な観念に過ぎないことを自覚すべきだという尤もらしい言説の有効性を、無条件に信頼している訳でもない。

 自分の正しさを信じるというのは、他人と比べて己が論理的な優越性を確保しているという事実を支持するものではない。論理的に眺めれば明らかに間違っていたとしても、私がこのように感じ、考えているという事実そのものは否定出来ない、という認識が、自分を信じるという精神的秩序の基礎的な原理であり、手続きである。まるで、デカルトのような口吻だ。森羅万象を疑うことは可能だが、森羅万象を疑っているという事実そのものは肯定するしかない。同じように、私が現に考えていることの内容の妥当性と、私がそのように考えているという事実そのものの妥当性は、同列に論じることが出来ない。私がどのような愚かしい考えや信仰に囚われているとしても、そのように囚われているという事実自体を否認してしまえば、如何なる前進も有り得ないのだ。先ず大前提として「私は、このように感じている」という経験的な事実から出発することを閑却してはならない。

 私が「自信」という言葉で呼びたいのは、こうした根源的事実の肯定である。私は幾らでも謬見を述べるだろうし、頻繁に視野狭窄にも陥るだろう。だが、そうした愚行を繰り返している自分自身の存在と精神を否認しようとは思わない。恐らく世の中に数多存在する「自信のない人々」は、自分が謬見を述べたり愚行を演じたりするという事実に、感情的若しくは道徳的な嫌悪を禁じ得ない人々なのだ。如何なる誤謬とも罪悪とも無縁でありたいという奇怪な道徳的高潔が、彼らの自尊心を度し難いほどに毀損している。それはキリスト教における「原罪」の観念を想起させる。自分たちは根本的な過ちを犯した存在であり、その罪から逃れることは絶対に出来ないという恐るべき理念が、人々の素朴な自己信頼を破壊するであろうことは眼に見えている。そして怯えた人々は「正しい人生」を手に入れることで、打ち砕かれた自己信頼の再建を目論むのである。それが「異常な廉潔」の温床であることは論を俟たない。

 如何なる邪悪な考えも、それを懐いているという事実を否定することで抹殺され得るものではない。寧ろ、そうした認識の否定は、否定された対象の異様な膨張を齎しかねない。正論に固執する人々は、自分が罪悪によって穢されているという事実に堪えかねて、罪悪を犯す人々を劇しく憎むようになる。だが、本来イエス・キリストは、そのような「異常な廉潔」に対する倫理的な抵抗を企図したのではなかっただろうか。私はキリスト教の歴史に就いて頗る無知な人間だが、姦淫の罪を犯した女に石を投げる人々に向かって「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」(「ヨハネによる福音書」)と言い放ったキリストの精神は、あらゆる「正論」の尋常ならざる暴力性に対する簡明な警告であるように思われる。