サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「プライド」に就いて

 「自信を持てない人ほど、プライドが高くなる」というのが私の個人的な見解である。自信というのは文字通り「自分で自分を信じること」を意味するが、自分で自分を信じられない性格の人間は往々にして「他人の評価に基づいて自分自身を信頼する」という迂遠な経路を辿った上で、己の実存を支えようとする傾向にある。

 何故、自分に自信が持てないのか、という問題は一旦解き始めると奥行きがあって、なかなかに厄介である。その根本には「自己否定」という精神的な様態が根深く横たわっている。自己を肯定し難いものとして捉える主体にとって、自己に対する信頼というものが不可解な謬見のように感じられるのは、自然な成り行きであろう。

 だが、自己を肯定しない限り、あらゆる問題が複雑に捻じ曲がっていくことは経験的な真理である。もっと根本的なことを言えば、自己を肯定出来ないのならば自ら死ぬより他に途はない。自己の存在を否定するという精神的秩序の物理的な表現は、言うまでもなく「自殺」である。極限まで自己否定の傾向が強まれば、自分が生きていることの意義は見失われてしまい、死なない理由が消滅してしまう。

 けれども、そこまで症状が悪化しない場合には、自己否定の精神は奇妙な迂回路を経由することになる。プライド(pride)という言葉は「自尊心」という日本語に翻訳されることが多いが、その字面は必ずしも精確な表現であるとは言い難い。何故なら、プライドの根本には「自己を尊重出来ない」という精神的構造が存在しているからである。それが結果として「他者の評価に対する過剰な依存」を形成することになる。

 プライドは他者の評価を通じて自己を承認するという迂回路を経由する。無論、そのこと自体は社会的な枠組みとして取り立てて不自然でも、病的でもない。だが、他者の評価に対する過剰な依存は「自己評価」という最も重要な機軸を衰弱させ、場合によっては崩壊させる。自己評価が、あらゆる人生の基礎的な枠組みであることを、私たちは忘却すべきではない。自己評価の存在しない、或いは存在しても極めて脆弱であるような精神的領域に「他者の評価」を持ち込めば、秩序が崩壊することは眼に見えている。生きていく上では先ず、自分自身の「意見」や「思想」を構築することが肝要である。その基本的な営為が不全である状態で他者の意見に耳を傾けても、人間の精神は極度の混乱に陥って痛々しいほどに衰弱するばかりである。

 プライドの高い人間は、自分自身に対する他者の評価に就いて、異様に敏感である。どれほど高慢な振舞いが目立つ人間であっても、その自己評価が「他者の意見」に著しく依存している限り、彼らは極めて容易に絶望するし、不安になる。他者の評価が総てであるならば、他者に嫌われるということは直ちに社会的な致命傷として認知される。この息苦しい牢獄が実存的な意欲を劇しく減殺することは無論である。

 プライドの高い人間は常に「自分のことを他人がどのように評価しているか」という問題に異常な執着を示し続けるが、それは彼らが「他人の評価」だけを自らの実存を支配する絶対的な基準として認識しているからである。言い換えれば、彼らは「他人の評価」を「自己評価」よりも遥かに優越させている。それが「自信を持つこと」と最も対蹠的な振舞いであることは論を俟たない。自信家は、他人の意見に耳を傾けたとしても、それが所詮は「他人の意見」であって、自分自身の人生に対する直接的な支配者の見解ではないという素朴な事実に絶えず同意している。自信家は「他人の意見」に基づいて自分の人生に関する重要な決定を下すという奇妙な習慣に対して、関心を寄せることがない。彼らは「自他」の境界線を明瞭に認識しており、従って「自立」という原理が実存の基盤として働いている。だが、プライドの高い人間にとって「彼我」の境界線は常に曖昧である。彼らは「他人の評価」を「自己評価」と混同するという幼稚な愚挙から遁走する術を持ち合わせていない。それが総ての悲劇の始まりである。