サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「個人的な辞書」に就いて

 生きることは思い出すことに似ている。生きているだけで人間の頭脳には重油のように記憶が溜まり、時に醗酵し、時に蒸発する。生きることは記憶を積み重ね、その網目を複雑な紋様にまで高めていくことだ。そうやって人間は生きることに慣れ親しんでいき、一定の閾値を超えると、そこから様々な見解や教訓を汲み取り始めるようになる。それを「成熟」と呼び習わすのは容易いことだが、果たして複雑に入り組んだ記憶の網目、即ち「意味」の網目が人間を幸福な状態へ導いてくれるかどうかは、心許ない話である。

 生きることは個人的な辞書を作り上げ、絶えず編纂し続ける長大な営みであると、或る角度からは定義出来るのではないだろうか。日々、様々な経験を味わい、その経験に触発されて真っ当な「思索」とは呼び難い、索然たる想念の回遊のような現象の渦中に精神の翼を翻し、少しずつ自分なりの小さな「結論」の数を増やしていく。知らなかったことに就いて学び、出来事から何らかの断片的な真理を引き出し、そうやって私たちは徐々に「生きること」に関する厖大な知識の集積の中へ足を踏み入れていくのだ。それが生きることの姿であると定義するのは、それほど強引な断定ではない筈だ。

 無論、その「個人的な辞書」における語釈は日々の経験に応じて絶えず書き替えられ、様々な角度から更新され、時には全く正反対の定義を受け容れるように転換する場合もあるだろう。そうやって私たちは少しずつ「辞書」の精度を高めている積りになる訳だが、それが正常な成長であると断言し得る根拠は何処にも存在していない。それが実存的な「自由」に課せられた、否が応でも承認せざるを得ない性質の宿命である。

 例えば「子供」に関する個人的な語釈は、実際に血の繋がった子供を持った後と、それ以前とでは、相互に比較すれば絶対に様変わりせざるを得ないだろう。或いは、生まれたばかりの脆弱な乳児の段階と、大学受験を間近に控えた思春期の終局の段階とでは「子供」に関する語釈は根本的に改訂されているに違いない。同時にそれは「親」に関する個人的語釈の頻繁な上書きの過程でもある。「子供」に関する語釈の訂正と「親」に関する語釈の訂正は常に繋がり合い、相互に働きかけ合っているのだ。

 考えることは、個人的な辞書の編輯に似ている。死ぬまで私たちは、そうやって書き替え続ける。徐々に老齢の徴候を纏い始めるうちに頭が固くなり、若い頃のように目上の人間の意向で右から左へ引き摺り回されることも珍しくなり、やがて生活の範囲が保守的な固着を示すようになれば、そうした語釈の変更は無益な徒労のように見え始めるかも知れない。それこそが本当の意味で「老化」の始まりなのだと、今の段階で、つまり三十一歳の段階で定義することは可能であり、自由であるが、その定義も明日の晩には百八十度、覆されているかも知れない。それが人生の基本的な風景なのだと思う。死ぬまで同じ一つの理想や信念に殉ずるのも美しいかも知れないが、転向や変節を厳しく断罪するのは、人間という生き物には余り相応しくない廉潔な習慣であると、私は考える。

 こうやって不透明な文章を書き綴りながら、今も私は新たな「語釈」を生み出し、自分の窮屈な頭の中身を整理することに不可解な情熱を燃え上がらせている。私はあらゆる事物に関して何らかの考えや意見を持ち、それを自分の言葉で表明し、説明し得る人間になりたいと思う。別に、周りから賢明な人間であると思われたいという浅ましい虚栄心に私が囚われていることが、その理由の総てという訳ではない。折角生まれてきた以上は、成る可くなら色々な「現実」に就いて知っておきたいと、貪婪で吝嗇な精神に魂を蝕まれているだけの話である。本を読む習慣というのも畢竟、そういう下世話な欲望に教唆されていることの証明に他ならないだろう。自分の知らない世界に就いて、何らかの知識を獲得したいと願うのは自然な好奇心の所産だが、同時にそれが噂話に興じたがる人間の卑しい根性と結び付いていることも端的な事実である。

 だが、知識は他者と結び付く上で重要な架け橋となるし、世界を知ることは他者を知ることと切り離し難い。多くの語釈を積み重ねていくことは、それだけ世界に接近し、越えられない壁を突き崩していくことと同義なのだ。折り重なった想い出から導き出された一縷の「意味」が、他人の強張った心を押し開く有効な手段として働くこともある。そう考えるならば、地道な「編輯」の営為は、共感という崇高な奇蹟に向かって投じられた錨のように美しく、大切である。