サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

中上健次の文業

 私は中上健次の熱心な愛読者という訳ではないが、その独特な文学世界には昔から持続的な関心を懐き続けてきた。彼の作品に就いては、柄谷行人を筆頭に、既に多くの言論が蓄積されている。それら怒涛のような論評の嵐に触れれば、中上健次の文学的時空の奥深さは直ぐに肌身で理解されるだろう。

 だが、そういった種々の観念的な論説が、中上の作品に与えている異様な磁場のようなものの弊害を、全く見過ごすというのは正当な態度ではないと私は思う。論じることは、事物に関する見通しを良くする為の営為であり、その過程で多かれ少なかれ、何らかの観念的な図式化の手続きが介入するのは避け難い成り行きである。だが、或る種の完成された強力な磁場のような論説に阻まれて、却って見えなくなる要素が存在するということは、予め心得ておくべき項目であろう。一つの立場、一つの図式が排除する細部に敢えて意図的に着目することで、異なる見え方が成立するということは、有り触れた話だ。

 柄谷行人の批評は、彼が生前の中上と深い、特別な親交を結んだ人物であったという歴史的な事実も相俟って、段違いの説得力を備えて読者の鼓膜に語り掛ける。勿論、それが一つの有効な視座であることは疑いを容れないが、そのような論説が絶えず前書きのように中上健次の文学に付き纏うのであれば、それは作品にとって必ずしも望ましい事態であるとは言い切れないだろう。

 中上健次の文学を、その具体的な読書経験の内容を反芻して、そこに何らかの理窟を、体系を、合理を樹立しようと試みる。無論、それは作品に刻み込まれた「意味」を理解し、作品そのものの構造を把握しようと試みる上で必要な行為だが、そうやって自分なりに手を尽くして拙劣な理路を築き上げようと企てる片端から、零れ落ちていく別様の「意味」の塊が存在することに意識を奪われずにはいられない。作品を所謂「大意」に還元しようとする学校教育的な文学解釈の方法に対する批判は、既に世上に氾濫しているが、私が言いたいのも結局はそういう陳腐な話である。つまり、作品を図式化することによって視野から除外されてしまう「豊饒な細部」が存在するという批評のクリシェである。

 それは確かに時に、論じることの救い難い不毛さを喚起し、論じる者を深刻な絶望の最果てへ導いていく。柄谷行人が「意味という病」(講談社文芸文庫)の後書きで、評論を草することの「抽象的な貧しさ」に就いて触れていたように、論者は絶えず図式化に附随する御都合主義に直面し続けることを強いられた、不幸な生き物なのだ。論じることは、創造することに比べれば遥かに貧相な営為であるという一種のドグマは、私たちの属する社会では強烈な説得力を孕んで息衝いている。実際、私は中上健次の作品に象嵌された数々の解釈し難い「細部」を恣意的に捨象することで初めて、何らかの図式を作り上げることに成功するのだ(それが「成功」という表現に値するかどうかは別の問題である)。そうやって何かを語った積りになっている瞬間に、私は大事な何かを見落としているかも知れない。「水の信心」が何を意味するのか、「ヨシ兄」の重要な存在感を如何なる理由に基づいているのか、そういった細部の問題を捨象しなければ、あの長大な「地の果て 至上の時」を何らかの枠組みへ還元することなど出来ない。だが、そもそも図式に還元することに、本質的な価値が備わっているのだろうか。無論、それは作品を深く理解する為である。だが「深く理解する」とは一体、どういうことなのだろうか?

坂口安吾と中上健次 (講談社文芸文庫)

坂口安吾と中上健次 (講談社文芸文庫)

 

 

意味という病 (講談社文芸文庫)

意味という病 (講談社文芸文庫)