サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

芸術と「quality」

 芸術というジャンルが特殊であるのは、それが如何なる意味でも「クオリティ」(quality)が総てであるという苛烈な構造的条件に貫かれているからではないかと、私は思う。

 芸術という人間にとって根源的な営為が、商業的な原理に巻き込まれることが何ら珍しくない現代の状況において、高踏的な芸術というものの価値は限界まで下落しているように見える。その理由は簡単で、端的に分かり難いものや敷居が高いものは「売れない」からである。売れないものは当然のことながら然るべき利潤を確保し得ないので、資本主義社会の泥沼においては評価されない。こうした考え方は、私たちの精神に深々と陥入して既に久しい。

 だが、本来ならば「芸術」というのは、その完成度やクオリティが至高の、そして唯一の価値を孕む領域である筈だ。そこに「採算」や「生産性」や「効率」といった概念が関与する余地はない。どれだけコストが低くても、下らないものに価値はない。コストがどれだけ見合わないほど厖大であっても、その価値さえ特権的な高みに到達しているのならば、あらゆる損失は無条件に免罪される。それが芸術の本懐であるべきだ。

 芸術作品はプロダクトではなく、その価値は売上や利益といった商業的な規矩によっては判定され得ない。だが、現代的な産業の現場においては、売上や利益といった指標が総ての価値に優先する。それは当たり前の話で、金儲けにおいて利潤が重要な意義を担うこと自体は少しも不当な現象ではない。商業の現場において、利潤を確保しないことは明確な罪悪であり、利潤を生み出さない総ての行為は不毛な害悪として排斥されるに決まっている。問題は、そうした領域に「芸術」という奇怪な営為を接続することの妥当性に存する。

 現代の一般的な企業の現場に属する限り、生産性の向上は絶対的な理念であり、不合理な営為は悉く排除されねばならない。利益に寄与しない不毛な行為を省略し、放逐することは、健全な改善と看做される。それは商業を支え、資本主義を支える根源的な摂理である。私自身、そうした風潮には随分と深く埋没してしまっている。そういう人間にとって、つまり産業化された人間にとって、利益を増大させる為の総ての合理化は称讃されるべき正義なのだ。そうした考え方を正しく理解せずに漫然と業務に取り組んでも、望ましい結果が齎される可能性は乏しい。

 だが、実業家的な考え方に囚われた人間は、芸術というものの本質と常に疎遠な場所に立っていることになる。芸術は、産み出された価値が総てであり、しかもその価値は金銭によっては置き換えられない、測定不能の性質を有している。芸術は常に「究極的な価値」を志向し、その境地へ達する為ならば、如何なる浪費も迂回も容認される。実業家は、そのような「究極的価値」への絶対的な希求とは関わりを持たない。実業家が探し求めるのは、価値とコストの均衡であり、その最も適切な関係性である。価値さえ得られれば、如何なるコストも容認されるというのは、健全な実業家の方針とは相容れない。素晴らしい作品も、それが採算に合わないのなら、商業的な観点から眺めれば無価値である。問題は、こうした二つの異質な基準を安易に混同してしまうことだ。これらの異質な基準は軽率に混ぜ合わされることによって、奇妙で醜悪な腐敗を喚起することになる。

 温厚で鷹揚なパトロンの庇護下に置かれ、誰に気兼ねすることもなく、純粋に至高の価値を探究するという往古の芸術家の境遇は今日、絶滅の危機に瀕している。芸術を生み出す為の営為が、金銭的な支援を受けない限り成立しないのであれば、誰しも多かれ少なかれ、芸術を換金する為の資本主義的な錬金術に色目を遣わない訳にはいかない。だが本来、芸術という営為は、裕福な生活とは直接的な関連を持たない筈ではないか。それが標準的な状態であることを閑却させるという点で、芸術における臆面もない商業主義は強力な毒性を孕んでいると言える。