サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

サラダ坊主の推薦図書5選(批評篇)

 今回の記事の趣旨は、表題の言葉に尽きている。私の個人的な推薦図書を五冊、称讃の為に羅列したいということである。少なくとも、読んで後悔することはないだろうと思われる選書の積りである。

坂口安吾堕落論」(角川文庫) 

堕落論 (角川文庫)

堕落論 (角川文庫)

 

  坂口安吾という作家の魅力は、その自由闊達で機敏な思索の破壊力に存すると思う。あらゆる固定観念や因習を振り払い、叩き壊そうとする鋭利な舌鋒は、厭味がなく、自己の短所を棚上げすることもなく、実に爽快で明朗だ。

 彼は小説家であると同時に、優れた批評家でもあった。寧ろ、小説家である以上に批評家であったと言うべきなのかも知れない。彼の眼力は常に明晰に事物の本質を穿ち、しかも右へ左へ徘徊する臆病な論理的停滞とは無縁である。別の言い方をすれば、彼の作家としての力量は必ずしも「小説」という近代的な様式に拘束される必要のないものなのだ。

 彼の批評的な随筆の類を読んでいるときの異様な爽快感は、何に由来するのだろうか。様々な事柄を次から次へ忙しなく取り上げる手つきは何とも移り気で、壮麗な伽藍を営々と築き上げていく体系的な学者の仕事とは対蹠的な性質を備えている。彼は作家なので、書かれたものの中身も文学的な話柄に関連する場合が多いが、必ずしも彼の眼力の対象は「文学的なもの」だけに留まらない。つまり、彼は文学者という古臭い肩書に囚われる偏狭さとは無縁なのだ。小説家だから、小説のことだけを考えていればいいという寡黙な職人を思わせる方針とは、全く相容れない人物である。無論、こういう問題は、いわば楯の両面のような話であり、裏返せば坂口安吾という作家は、創造者という観点から眺めれば余りに観念的な饒舌を好み過ぎる傾向があったのではないかと思われる。「堕落論」や「日本文化私観」といった代表的なエッセーに比較すると、彼の小説的な実作に対する評価は、相対的に低いのではないだろうか。「夜長姫と耳男」のように特権的な高評価を受けている作品もあるが、今更「風博士」や「白痴」を夢中になって耽読するということは難しいように思う。

 「堕落論」(角川文庫)には、坂口安吾の代表的なエッセーが網羅的に収録されているので、彼の著作に触れたことのない方々には好適の入口であると私は思う。「論」という言葉が表題に添えられているので、小難しい理窟に付き合わされるのではないかと身構え、ページを捲る前から辟易する早合点の読者もおられるかも知れないが、それは大いなる謬見である。坂口安吾が何かを論じるときの書きっぷりは、決して堅苦しく言い訳がましい、防禦的なものではない。自己の経験と見識に対する素朴な自信に裏打ちされた、清々しい断定が次々に提示され、読み替えられ、乗り超えられていく。恐らく彼の思索は慎重な論証よりも、軽快な舞踊を好んでいるのだ。もっと言えば、彼は単なる評論家を気取っているのではなく、従って論破されたり揚げ足を取られたりすることにも躊躇しない。だから、慎重な歩行によって少しずつ明確な体系を築き上げていくという誠実な、そして退屈な作業とは相容れない。彼には良くも悪くも「鈍重さ」が足りない。無論、それは彼の美質と切り離し難い人間的要素である。

 何かを論じるということは、必ずしも万人に認められる正解だけを語るということではない。重要なのは自分自身の経験と見識に就いて、力強く表明することである。坂口安吾の観念的な饒舌には熱い血潮が通っている。彼の論理は手榴弾のように爆発的で、破壊的で、そして断片的である。

 

寺山修司「書を捨てよ、町へ出よう」(角川文庫)

書を捨てよ、町へ出よう (角川文庫)

書を捨てよ、町へ出よう (角川文庫)

 

 寺山修司という多面的な表現者には、何故かいつも得体の知れない胡散臭さのようなものが付き纏っている。短歌や俳句といった短詩型文学の強烈な新人として出発し、晩年には劇団「天井桟敷」を主宰する表現者として、その短くも華やかな経歴を築き上げた寺山の生涯には、異様な疾走感と共に、底知れぬ不透明さが絶えず伴走している。

 現行の「書を捨てよ、町へ出よう」(角川文庫)に収録された文章が、私の手許にある旧版と同じ内容であるか確認していないのだが、この一冊に纏められたエッセイの猥雑な多様性は、寺山修司という人物の驚嘆すべき多様性の反映であると思われる。彼には若者を煽動する情熱的な宣教師のような側面があり、その思想的な広がりは、彼が単なる芸術家ではないことを明確に立証している。

 坂口安吾にも言えることだが、寺山修司という人物は一貫して「自由」という理念に向かって、思索と行動の総体を練り上げていたように思われる。坂口も寺山も共に「家庭」という理念に対する反発と攻撃を、自らの人生における重要な「規矩」の一つに計上している。その意味で、彼らは頗る典型的な近代主義者であったと言えるだろう。彼らは個人の「自由」を束縛するものの弊害に就いて熟慮を怠らない、筋金入りの「跳ねっ返り」であった。その反骨精神が、彼らの文章に清々しい疾風の手触りを齎している。

 寺山修司の文章には、絶えず抽象的な観念と具体的な個物との間を往還し、それらを同時に稼働させているような感覚が備わっている。その「往還」のダイナミズムが、寺山の文章に漲る刺激的な魅力の源泉なのだろうと私は思う。具体的なものと抽象的なもの、これらの取扱に関して人間の適性は分裂することが多いと思うが、寺山修司の強靭な知性は何れかに偏向することを自らに許容しない。

 尤も、その根源的な資質が極めて言語的なもの、観念的なもの、ロジカルなものによって構成されていることは厳然たる事実であろう。だからこそ、彼は演劇的なもの、肉体的なものの跋扈する世界への移行に、己の後半生を捧げたのではないだろうか。こうした点も、坂口安吾に類似していると言えなくはない。或いは三島由紀夫も。徹底的に「言語」に憑依された抽象的な人間であるからこそ、反動のように「肉体」と「非言語」と「感受性」の世界に強烈な憧憬を懐いてしまう。そうした振幅が、彼らの思想を否応なしに膨張させ、尖鋭化させたのである。

 

三島由紀夫三島由紀夫文学論集」(講談社文芸文庫

三島由紀夫文学論集 I (講談社文芸文庫)

三島由紀夫文学論集 I (講談社文芸文庫)

 

 三島由紀夫は、小説、戯曲、評論と、極めて多面的な才能を発揮した戦後日本最大の作家の一人である。何より、その犀利な知性が紡ぎ出す鋭利な省察の数々を鏤めた種々の評論文は、彼が職人的な物語作者の範疇に留まらない傑物であったことを、今も燦然と立証している。尤も、その鋭利な頭脳ゆえに、小説の出来栄えの技巧的な臭気を批判されることが多かったのは、避け難い事態であろう。

 旺盛な創作活動の絢爛たる連峰に比べれば、批評家としての三島由紀夫の才能が巷間に充分膾炙しているかどうかは心許ない。だが、ここに掲げた文学評論の集成を繙けば、その刺激的な思索の冴えと躍動感に、誰しも知的な興奮を掻き立てられるに違いない。市ヶ谷駐屯地で割腹自殺を遂げた右翼の狂人、という不名誉な偏見に縛られて、その優れた巨大な才能を黙殺するのは実に勿体ない話である。実際、三島由紀夫の文業と人柄に関する毀誉褒貶の劇しさは眩暈を覚えるほどで、人によって様々に好悪の分かれる作家であることは疑いを容れない。だが、その余りに卓越した明晰な頭脳が紡ぎ出す文章には、行き届いた機智が活発なトビウオの群れのように躍動している。文学や芸術に関して、或いはモラリスト的な「人間の省察」に関して、これほど魅惑的で滋味のある言葉の列なりを生み出せるということは、尋常ならざる才能である。

 

柄谷行人「意味という病」(講談社文芸文庫

意味という病 (講談社文芸文庫)

意味という病 (講談社文芸文庫)

 

 柄谷行人は、戦後日本で最も精力的な活動を持続してきた健筆の批評家の一人である。老境を迎えた今も猶、憲法に関する著作を世に問うて話題を集めるなど、現役を退く気配すら窺わせていない。

 「文学」に愛想を尽かした旨の発言を繰り返すようになって既に久しいが、氏の華麗なる批評家遍歴の出発点は、夏目漱石に就いて書かれた「意識と自然」という鋭利で独創的な論文であった。その文章は極めて観念的な主題を取り扱っているにも拘らず、センシュアルな魅力を湛えており、尚且つ異様な疾走感に満ちている。私個人は、政治や経済、哲学に関する後年の厖大な言説よりも、初期の柄谷氏が知性の躍動に導かれるままに書き綴っていた文芸評論の類を愛する。小説という、或る意味では不透明で奇怪な生物から、極めて明晰で硬質な論理の鎖を巧みな奇術のように引き摺り出す、その神憑りめいた手腕には過去、多くの読者が圧倒されてきただろうし、そして今後も変わらずに圧倒され続けるだろう。

 評論集の表題に選ばれた「意味という病」は、シェイクスピアの悲劇「マクベス」に就いて書かれた論文である。私はシェイクスピアの戯曲を読んだことも、芝居を観覧したこともない。にも拘らず、この「意味という病」が私にとって、極めて刺激的な知性の格闘として感じられたのは、改めて考えてみれば奇怪な現象である。それは柄谷行人の文章が単なる「マクベス」の註釈に留まるものではないからだろう。彼は文学作品を通じて、様々な事柄に就いて実存的な思索を展開し、それを自らの生きる糧に変えている。そうでなければ、批評など退屈な観念的児戯に過ぎない。日本語で考える以上、柄谷行人の著作に指一本触れないという選択は容認されないだろう。

 

江藤淳「作家は行動する」(講談社文芸文庫

作家は行動する (講談社文芸文庫)

作家は行動する (講談社文芸文庫)

 

 江藤淳の文章には、独特の「侠気」が宿っている。柄谷行人と同じく、夏目漱石という明治期の偉大な文豪から薫陶を受け、重大な影響を蒙った彼の批評は、侍を思わせる端正で力強い措辞に濫れている。

 「作家は行動する」という一冊の稀有な書物が、体系的な理論書であると言うよりも、若人の奔騰する情熱によって綴られた鮮烈な信仰告白に感じられることは、実証的な学問の観点から眺めれば深刻な瑕疵であろうが、一般の読者にとっては必ずしも不満の原因とはならない。あらゆる文学作品と作家の実存的な特質を、紡ぎ出された「文体」の次元から捉えようとする彼の試みが、主観的な印象批評の範疇を確実に超越していると弁護し得る根拠は乏しい。だが、それゆえに彼の磨き抜かれた眼力の鋭さと柔軟さが却って際立つのだと、言えるのではないだろうか。徹底的に「文体」の次元から、文学の本質に遡行しようとする若々しい企ては、体系的な理論には昇華され得ないが、だからこそ縦横無尽に動き回る「批評」のセンシュアルな手触りが随所に漲るのである。

 江藤淳は、韻文的な感傷を好まぬ人であった。或いは、ミラン・クンデラのように小説という近代的な芸術の価値を「反抒情的な詩」という性格に見出している人であった。恐らく、その堅固なストイシズムが、彼の文章に侍の風格を附与しているのだろう。彼の鋭利な筆鋒を味わうことは、己の惰弱を断ち切ることに類似している。