サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「意味」を求めない散文

 「小説」とは「意味」を求めない散文であるという妄説を思いついたので、書き留めておく。書き留めておくとは言っても、この妄説の全貌が既に予見されている訳ではない。漠然たる想念の束が、意識の内部を浮遊しているというだけの話である。

 小説とは基本的に「断片」の集積である。無論、この場合の「小説」という観念は狭義の代物である。世の中に流布している諸々の小説作品は、便宜的に「小説」とラベリングされているだけのものを数多く包摂している。私が本稿で捉えたいと思っている対象としての「小説」は言わば、理念としての「小説」である。考えるという作業は原則として、対象を理念化する作業から出発しなければ、建設的な有効性を確保することが出来ない。

 理念化された「小説」は、言い換えるならば「小説」が「小説」として構成され、承認される場合の純粋な条件を問い詰める為の、或る抽象的な仮説である。「小説」とは何か、という設問に対して、個々の具体的且つ多様な実作の群れを提示するだけでは、議論が深まることはないし、小説を定義することの不可能性という尤もらしい退屈な真実に直面するのが関の山だろう。それでは考察を実行する意義が生み出されない。

 小説の本質的な要件として、私が「断片性」という奇矯な言葉を挙げるのは、小説が或る単一の合理的な体系に還元されることのない「散文」である、という仮説を明快に説明する為である。「小説」が常に断片的なものの集積として構成されるのは、或る単一のロジックからの逸脱を果たす為である。何故なら、単一の首尾一貫した論理的体系を構成する為に綴られる散文は、わざわざ「小説」とは呼ばれないからだ。

 小説が小説である為の条件は、その題材が事実に基づいているかどうか、という観点には関わりを持たない。これは小説を「散文によるフィクション」と看做す、素朴で古典的な謬見に対する一つの警告である。事実であるかどうか、つまり小説の「虚構性」に小説の本質を還元するような理路は、様々な矛盾に衝突して直ちに砕け散ることを確約されている。自伝的な小説が「小説」として成り立ち、奇想天外な法螺話も同時に「小説」として成り立つことを鑑みれば、虚構性という一見すると尤もらしい基準が、如何に恣意的な捨象の上に組み立てられているか、直ぐに判明するだろう。

 だからこそ、私は小説に含まれている「意味」の内容が事実であるかどうか、という極めて実証主義的な確認の作業に価値を見出したくはないのである。作者が地上に生を享けた人間であり、予め他者によって築き上げられた母国語の揺籃を手懸りに、言語的な創造の履歴を開始することを原理的に運命づけられている以上、純然たる虚構などというものが成り立ち得ないことは、自明ではないだろうか。虚構とは、事実の観念的な組み合わせと混淆のことであり、如何なる奇怪な妄想も、必ず経験的な事実との間に何らかの臍帯を有しているものなのである。

 従って、小説の定義を「絵空事」と看做す凡庸な謬見には、明確な訣別を告知せねばならない。その代わりに私が持ち出したいと考えている御題目が「断片性」なのである。

 小説が小説として成立する為には、その文章の総体が「要約」に叛逆している必要がある。世上、頻々と言われる話ではあるが、小説の全体を一つの辻褄の合った論説に還元し得るのならば、わざわざ「小説」という記述の形式を選択する必要はない。論説として明確に書き表した方が、書く側にとっても読む側にとっても手間が省けて、簡便でいい。だが、そうすることが許されない事情や企図が存在するからこそ、人間は「小説」という迂遠な話法を発明したのである。

 単一の合理的な体系、これを便宜的に「ロゴス(logos)」と呼びたい。最初から最後まで首尾一貫した合理的な秩序として構成されたもの、これがロゴスである。このロゴスは、あらゆる散文にとって基礎的な標識であり、導きの糸である。このロゴスに抵抗する身振りとして現れるのが「小説」という文学的技法である。それは単一の滑らかな秩序に対する異議申し立てという役割を担っている。しかも、その異議申し立ては、或るロゴスに対して別様のロゴスを向き合わせるという、通常の「論駁」の手続きを取らない。ロゴスそのものに対する本質的な抵抗として、小説は「単一のロゴスの破綻」という原理を、自らの記述の次元に導入するのである。

 その結果として、小説は或る単一な「意味」の体系を絶えず断片化し、銘々の細部が互いに矛盾し合うような緊張関係を形作るように、自らの記述を組織する。それが小説という原理の本質的な特異性であり、定義の要件である。中上健次の長大な一冊を例に挙げよう。「地の果て 至上の時」は、一般的には「父殺し」を主題に据えた紀州サーガの絶巓を成す物語であるという風に説明されるものだが、実際に読んでみれば、この物語が(厳密には「小説」が)単純な「父殺し」の説話だと言い切れない、複雑で矛盾した細部の記述を夥しく含んでいることに否が応でも気付かざるを得ない。そもそも、余分な先入観を省いて虚心に読む人々の眼には、果たして秋幸が浜村龍造を「殺したい」と思って動いているようには映らないのではないか。浜村龍造の自殺という「意想外の顛末」に衝撃を受けるような読者も存在するようだが、そもそも浜村龍造の自殺の意外性を「父殺し」の不可能性という認識に短絡させることは、一面的なロゴスの作用に他ならない。

 寧ろ中上健次は、様々な「細部」の集積に呑み込まれながら、筆を走らせたのではないか。それは彼が「地の果て 至上の時」という巨大で奇怪な、矛盾した作品を執筆したという歴史的な事実によって証明されている。そこには、一見すると意図の不明瞭な挿話が数多く彫り込まれていて、それらの挿話を一繋がりの巨大な数珠のように解説し、論証することは不可能であり、同時に無益でもある。もっと明快な事例を挙げれば、夏目漱石の「吾輩は猫である」は如何だろうか。そこに織り込まれた無数の挿話、衒学的な雑談、申し訳程度の筋書き、そして麦酒を舐めて酔っ払い、水甕に落ちて死没する語り手の猫の独白など、それらの様々な「細部」を一つの明瞭な「ロゴス」に還元することが、一体誰に出来るだろうか? 然し、これらの作品の価値は専ら、そうした「矛盾する断片」の奇怪な屹立に、その水源を有しているのである。

 或る小説を、一繋がりの数珠に似たロゴスに還元してしまうということは、その小説を殺害することに等しい。私たち読者に求められているのは、そのようなロジカルな還元を差し控えて、矛盾する断片の協奏に、虚心に耳を傾けることなのである。或る作品を土台に選んで、自らの主観的なロゴスを繰り広げるだけならば、批評という営為は緊張を欠いた、不毛な堕落に過ぎない。そういう陥穽に囚われがちであることは、私自身の課題でもある。

地の果て 至上の時 (講談社文芸文庫)

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吾輩は猫である (新潮文庫)

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