サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

サラダ坊主風土記 「両国」

 先日、妻と二人で久々に外出した。幼い娘は、義母が一日預かって面倒を見てくれた。有難いことである。そういう協力がなければ、小さな子供を抱えた夫婦が二人きりで外出する機会を得ることは、とても難しい。

 そういう貴重な機会であるのに、事前に綿密な計画を立てる訳でもなく、私たちは行き当たりばったりに家を出た。息苦しいほどに劇しい夏の光が燦然と降り掛かる午前十時の街並だ。京成電車の線路に沿って歩きながら、ベビーカーを押さずに歩く感覚に少し戸惑う。何だか、普段と異なる世界を歩いているような気分に陥るのは、それだけ私が育児に慣れてきたということの証拠だろうか。

 両国へ行こうと思い立った契機は、早くも忘れてしまった。ただ以前から、江戸東京博物館https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/)に行ってみたいと、漠然たる野望を胸の内に宿していたことは事実である。何となく「和風っぽいもの」に心惹かれてしまうのは、老化の徴候であろうか。何しろ私は、二十歳の時に初対面の人から「三十くらいですか」と尋ねられたり、十八歳の時にバイト先の青果店の店長から「君は若さがないよね」と言われたり、年上の上司から年上だと勘違いされたりしてきた経歴の持ち主であるから、三十一歳にして「江戸の風情」に関心を覚えるほど老化が亢進している可能性は大いにある。妻は余り気乗りしない様子であった。だが、際立った代案が二人の頭に思い浮かぶ前に、総武線の各駅停車は両国駅へ到着してしまった。

 生まれて初めて降り立った両国駅は、如何にも相撲の本場を思わせる空気に満ちていた。興行があるとき以外は封鎖されていると思しき階段がホームにあり、船橋法典駅中山競馬場の恩恵で生きているように、両国駅も大相撲の余沢で生きているのだろうと思われた。

 偶には奮発して鰻でも食べようかという話を往きの車中で交わしていたのだが、調べた店は駅の反対側のビルにあるらしく、バクダッドを思わせる苛烈な炎天下を歩き回るのは気が進まない私たちは、駅に併設された飲食店街の中に昼餉の候補を求めた。ちなみに私も妻もバクダッドを訪れたことはない。私に関して言えば、齢三十を越して、未だに一度も国境線を越えたことのない、筋金入りのドメスティック野郎である。その度し難い保守性が、駅の反対側にある鰻屋さんまでの旅程さえも、躊躇わせたのである。

 結局、私たちはあっという間に方針を転換して、天麩羅を食べた。目の前で職人が揚げてくれるタイプの店である。私は上等な天麩羅屋に入った経験がないので、職人の一挙手一投足が関心を惹いた。三人の中高年男性、どちらかと言えば高年の男性が三人、無駄口も叩かず、黙々とフライヤーと格闘している。色々なところに小麦粉の白い痕がついている。三人とも、老獪な政治家のような顔立ちである。一日中、引っ切り無しにフライヤーへ揚げ種を抛り込んだり、金属の菜箸を操ったりしているのだから、とても暑くて大変だろう。しかも、絶えず手許を客に観察される職場環境なのだ。これはなかなか気疲れする境遇である。その夥しい視線の圧力に堪え忍ぶ為だろうか、三人とも老獪な政治家のような顔つきであるのは。あれは恐らく、世間の批判に対抗する為の仮面であろう。

 食事を終えると、私たちは目当ての江戸東京博物館へ向かった。その通り道にバーベキューを行なう会場があり、狭苦しいスペースに犇めき合って家族や友人同士の集団が肉を焼き、酒を呷っている。そこから放出される煙の量が厖大で、駅前のところまで押し寄せるのだ。暇を持て余した寿司屋の兄さん二人が、今日は一段と煙が酷いねと頷き合っていた。こんな炎天下で、濛々たる煙、しかも肉を焼いた煙を浴び続けて、アルコールまで摂取したら、肉体はボロボロに劣化するのではなかろうか。私は心配になったが、こういう心配を懐くこと自体が既に、私の内なる老化の動かぬ証拠であろう。

 江戸東京博物館は、驚嘆すべき巨大な建物であった。余りに広くて、一体誰の差し金でこんな巨大な博物館が作られたのか、慎太郎の肝煎りだろうかと、要らぬ憶測が膨らんでしまう。入館料を惜しんで特別展の方は節約し、常設展だけを見物することにしたので、一人600円であった。安い。これで巨大な図体を養っていけるのか、設備投資は回収出来るのか、再び要らぬ憶測が鎌首を擡げる。カロリーの浪費である。

 生温い空調の館内は、壮観であった。実物大の日本橋(半分だけ)、実物大の歌舞伎小屋が再現され、彼方此方にジオラマやレプリカが鎮座して、江戸の風情を来場者に実感させるべく袖を捲り上げている。気乗りしていなかった妻も、徐々にテンションが上がっていく。大名行列の駕籠に平民の分際で試乗し、座り心地を確認している。私が妻に「クーラーはついているのか」と愚問を投げ掛けると、傍にいた見知らぬ高年の男性がふふんと鼻で笑った。

 そうして館内を歩き回っていると、何処からか三味線の音色が聞こえてきた。力強い拍手喝采の騒めきが時折入り混じる。どうやら津軽三味線の演奏を遣っているらしい。妻は両親が津軽の人なので、津軽の文化に愛着を持っている。惹き寄せられるように、私たちは演奏に聞き入った。三味線は弦楽器だと思っていたが、マイクで拡大された音の中に、バチで三味線を叩く荒々しい音が混じるのを聞いて、打楽器としての要素も強いのだと独り合点した。そのような趣旨のことを、演者の男性も説明していた。荒々しく、血が騒ぐような音楽である。元々、津軽三味線は新潟の瞽女などと同じく、視覚障害者が生計を立てる為に営んだ門付の芸能として発達してきたものだそうで、そういう意味では貧しい黒人の奴隷たちが生み出したアメリカのブルース音楽にも通じる、一種の「魂」の音楽とも言えるだろう。差別され、虐げられた人々が生きる為に作り出した芸術である。世間では、金を稼ぐ為に音楽を奏したり小説を書いたりすることを「商業主義」と呼んで批判する事例が多く見られるが、例えば津軽三味線の奏者たちが置かれていた境遇を思えば、彼らの門付を「商業主義」という言葉で断罪することが如何に無力で能天気な批判であるか、直ぐに分かるだろう。

 別に私は商業主義の肩を持ちたくて、こんなことを書く訳ではない。ぎりぎりの生活を強いられた者に対して「金儲けは罪だ」などと説いたら、どんな修羅場が演じられるだろうかと、妄想を逞しくしただけである。