サラダ坊主日記

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虚実の迷宮 ウンベルト・エーコ「バウドリーノ」に就いて

 ウンベルト・エーコの『バウドリーノ』(岩波文庫)は、ヨーロッパの歴史や思想に関する該博な知識を素材として組み立てられた奇想天外な冒険活劇である。この小説の奥深い含蓄を、西洋の文化に余り馴染んでいるとは言い難い私のような人間が精確に理解することは難しい。作中には夥しい神学的議論の記述が織り込まれているが、それが恐らくは一種の「諧謔」を含んでいるであろうことは想像に難くない。

 そもそも稀代の嘘吐きとして設定され、終盤では自ら郷里の聖人の如く、世人の尊崇を集める宗教的行者を装う主人公バウドリーノの存在自体が、破天荒な「奇想」の系譜に彩られている。この作品が「中世騎士物語の破天荒なパロディ」(河島英昭の惹句)なのかを判断する材料も基準も生憎、私は持ち合わせていないが、尤もらしい深刻な物語を嘲笑するように語られる、事実と虚構の境目すら判然としない荒唐無稽の世界に、私は夏目漱石の「吾輩は猫である」を想起した。この作品を、写実的な彩りを施された「リアリズム」の小説として捉える純朴な読者は恐らく存在しないだろう。普通、リアリズムを志向する物語は、具体的な語り手の存在を消去することで、語られる内容の迫真性を読者に信頼させようと試みる。だが、そもそもビザンツ帝国の高官ニケタスにバウドリーノが語って聞かせた数奇な体験談という体裁を取っている本作においては、そうした近代的なリアリズムの作法は積極的に棄却されていると言えるだろう。

 ヨーロッパにおける様々な史実や伝承を混ぜ合わせて仕立てられた、この幾らか衒学的な物語には、無数の解釈と味読を許容するポイントが楔のように打ち込まれている。それは漱石の「吾輩は猫である」が極めて日本的な現実と史実に基づいた含蓄の魅力によって読者を眩惑するのと同質の文学的「装置」である。言い換えれば、この作品は奇想天外な冒険譚として構築されているけれども、単なる冒険譚として理解され、鑑賞される為に存在している訳ではないということだ。その意味で、この小説を万人に向けて開かれた普遍的な作品として、つまり地理的=歴史的条件を超越した作品として定義するのは適切な判断ではないだろう。作者は極めて厳格に、そして意地悪な態度で読者を選別し、その資格を査定しているように感じられる。この作品を愉しむ為には西洋の史実と伝承に関する該博な知識が要求される。特に中世ヨーロッパという奇想天外な世界に対する熱烈な関心の所有者にとっては、エーコの紡ぎ出す滑稽で奔放な冒険譚は壮大な「奇想」の展示場のように感じられるのではないだろうか。

 メルヴィルの「白鯨」を読んだときにも改めて感じたことだが、世の中に流布している「小説」に就いてのイメージは案外平板で、固陋な偏見を身に纏っている。巧みに構成された筋書き、精彩を放つ登場人物たち、流麗な文章、こうした要素の適切な配合が、優れた小説を成立させる為の主要な条件であるという素朴な信仰は、私たちの凡庸な精神に深々と突き刺さり、浸透している。だが、この「バウドリーノ」は精密に構築された美しい冒険譚に自らを擬する欲望とは無縁である。皇帝フリードリヒの死の真相を巡る終盤の種明かしなど、推理小説としては明らかに失格の部類に属するだろう。無論、これは「バウドリーノ」の瑕疵を指摘する為に言うのではなく、飽く迄も作者の関心が巧緻なリアリズムには存しないことを例証する為である。

 この作品には、中世ヨーロッパの人々が作り上げた多様な「世界観」の内実が詳細に書き込まれている。その筆頭がプレスター・ジョンの伝説であることは言うまでもないが、その他にも無数の奇怪な生物の描写などに、当時の人々の想像力が具体的な痕跡として反映されている。言い換えれば、この作品は中世的な幻想の「宝物庫」として玩味されるべきものなのである。恐らくプレスター・ジョンの伝説に対する西洋人の歴史的な情熱を肌身に感じた上で「バウドリーノ」を繙くだけでも、その文学的な愉楽は大幅に高められるだろう。織り込まれた数多の神学的議論も、キリスト教の風土の中で生まれ育った人々の耳には愉快で滑稽な諷刺のように響くのかも知れない。

 プレスター・ジョンの数奇な伝承は、史実においても、十字軍の情熱を限界まで高揚させる突飛な妙薬の役割を果たしている。その意味では、プレスター・ジョンの伝承は一つの集合的な「真実」である。それは例えば浄土宗の信仰において阿弥陀如来西方浄土が夢見られたのと同じ現象である。私たちの主観は、一般的に信じられているほど厳密な実証科学の原則に忠実ではない。アメリカのジャーナリズムを「もう一つの事実」(Alternative Fact)という突拍子もない妄言が賑わせたように、私たちの内的な真実は極めて曖昧な「虚実の皮膜」によって形作られているのだ。何処までが「事実」で、何処までが「空想」に過ぎないのかという問題は、素朴に考えられているほど判定の容易な案件ではない。私たちは中世のヨーロッパ人が懐いた「司祭ヨハネの王国」のイメージを、荒唐無稽の非常識な「妄想」として排斥する資格も権限も有していない。彼らの妄想は中世的な要素に装飾されているけれども、そうした「妄想」に対する集合的な信憑は決して中世という時代に固有の疾病ではない。インターネットが発達し、様々な情報に触れることが容易になった現代において、寧ろ「虚実の皮膜」の曖昧さは加速度的に強まっている。科学技術の潤沢な恩恵に与っているにも拘らず、二十一世紀の私たち人類は少しも進歩していないのである。 

バウドリーノ(上) (岩波文庫)

バウドリーノ(上) (岩波文庫)

 
バウドリーノ(下) (岩波文庫)

バウドリーノ(下) (岩波文庫)