サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「サラダ坊主日記」開設二周年記念の辞

 毎年八月二十五日は、この「サラダ坊主日記」というブログの誕生日である。

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 本日を以て、私の運営する零細ブログ「サラダ坊主日記」は開設二周年の節目を迎えた。二年間、あっという間に経過したという月並みな感慨を書き記すのも芸のない話だが、無芸である自分を殊更に隠蔽しても、それで報われる訳ではない。実際、光陰矢のごとしという感じだ。それ以上でも以下でもない。

 二年の間に、色々な出来事が私の人生を襲い、通り抜け、或いは踏み止まっている。娘の出生が最大の記念碑的事件だが、それ以外にも大小様々の「経験」が、私の日常に爪痕を刻んでいる。その一つ一つを悉く記憶している訳にはいかないが、何もかも流されるままに忘却するのは勿体ないという気もする。結局、文章を書いて世間の眼差しに晒すということは、自分という人間の「生きた証」を遺すことに他ならない。そういう健気な自己顕示欲が、私という退屈な凡人にも抜き難く宿っているのだ。そうやって何かを、つまり人生の些細な断片の数々を文字という形式で、世界に向かって刻印したところで、何が起こるというものでもない。煎じ詰めれば、自己満足に過ぎない。だが、その小さな自己満足の累積が、私の日常を彩る重要な習慣にまで育ったことは、紛れもない事実なのだ。

 書くこと、それ自体はとても矮小な営みで、何の建設的な効果も齎さない、砂掻きのように虚しい仕事であるかも知れない。大袈裟な言葉で、その崇高な効能を殊更に称揚しても、その虚しさが根本的に解消されることはない。だが、このようなペシミズムが、書くことの価値を破壊すると考えるのは、幾分偏狭な見方である。矮小な営為、報われない砂掻き、そうしたレッテルの向こう側には、何と言えばいいのか、見知らぬ誰かに何かが「伝わる」という驚くべき奇蹟が、稀に待ち構えていることがあるのだ。実際、このブログには、自分勝手な尺度で綴られた文章しか投稿されていないにも拘らず、見知らぬ人々に読まれ、場合によっては好意的な評価を受けることさえある。これは信じ難い奇蹟に他ならない。そういう束の間の奇蹟の光が、書き続けることの「理由」の一つになる訳だ。

 何が言いたいのか、何時にも況して不明瞭な記事となってしまったが、何卒御容赦願いたい。今後とも「サラダ坊主日記」を宜しく御願い申し上げます。