サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

サラダ坊主風土記 「仙台・松島・塩釜」 其の四

 我々は遊覧船の後方にあるデッキに立って、燃油の香りと強い潮風に包まれながら、曇天の松島湾を周遊した。生憎、娘は桟橋で乗船時刻を待つ間に眠ってしまった。混み合った空間で甲高く泣き叫ばないでくれるのは良いことだが、肝心のタイミングで寝入ってしまうのは、娘の不運なところである。尤も、当人は未だ、己の不運を自覚していない。

 エンジンと風の音に遮られて、キャビンに流れる案内放送の音声は殆ど聞き取れなかった。湾内を航行する間、幾度もウミネコが船尾を追い掛けるように飛んできて、途中で横向きに逸れていく光景が眺められた。船の動きが、そういう気流の形を作り上げるのだろうか。その気流に、ウミネコが便乗しているのではないか。だから毎回、同じ軌跡を描いて登場し、同じ方向へ退場していくのだろう。

 それほど広い面積でもないのに、湾内には大小無数の小島が浮かんでいた。中には、島と呼んでいいのか躊躇われるほどに小さな、ただの岩礁のようなものも含まれていた。松島の名に恥じず、どの島にも概ね確実に松の木が繁っている。東日本大震災津波を被って立ち枯れたままの島もある。津波の痕跡は、今も彼方此方に消え残って、途方に暮れているように見える。

 私の勤め先は昔から、宮城県産の牡蠣をフライ用に仕入れている。震災が起きたときは、気仙沼の辺りも牡蠣の養殖場が潰滅的な被害を受けてしまって、納品が途絶えてしまった。止むを得ず広島県産の牡蠣を仕入れて急場を凌いだが、今ではだいぶ生産量も回復してきているようだ。

 湾内の周遊を終え、レストハウスに戻って一休みしてから、我々は海岸から程近い場所にある臨済宗妙心寺派の古刹「瑞巌寺」を見学しに行った。交通量の多い県道を渡って総門を潜り、土産物屋に挟まれた小径を往くと直ぐに拝観受付へ辿り着く。中に入ると、幅の広い敷石道(この言葉は、大江健三郎の小説から学んだ)が真直ぐに伸びていて、右手に背の高い杉の並木が続いていた。震災の時には、津波がこの参道の辺りまで押し寄せたらしく、塩害も随分あっただろうと推察された。前述した通り、湾内の島々に浮かぶ松の木にも、立ち枯れたままのものが今も残っていたくらいだから、杉だけが無事に済んだとは思えない。

 瑞巌寺は、古びた閑寂な寺院であった。親切な警備員の男性が、自分が見張っておいてあげるから、ベビーカーやトランクは入口の脇に置いていって構わないと声を掛けてくれた。砂利の敷かれた敷地を、娘の小さな手を曳いて歩き、靴を脱いで本堂へ上がった。ひんやりとした薄暗い廊下を、小さな娘は嬉しそうに歩き回る。変に慎重なところがあって、段差に差し掛かると不安げに立ち止まり、手を曳いてくれと態度で示してくる。

 寺院の板敷の床を歩くのは、気分のいい時間である。ただ外側から眺めるだけの寺社仏閣は面白みに欠ける。私が今も感慨深く思い出すのは、京都の東本願寺の御影堂である。巨大な板敷の床は薄暗く、涼やかで、夏の盛りに訪れた所為もあって一層、身も心も安らいだ。日頃の生活では嗅ぎ慣れない、木材や御香の匂いが漂い、靴を脱いで座り込むと、如何にも「非日常」という心持がした。「堂宇の中に入れる」というのは、重要な事柄である。それだけで古びた史跡に対する理解度が随分と違ってくるように思う。

 国宝である本堂の中には「室中孔雀の間」「仏間」「文王の間」「上段の間」「上々段の間」「羅漢の間」「墨絵の間」「菊の間」「松の間」「鷹の間」と銘打たれた複数の部屋があり、何れにも絢爛たる襖絵が飾られていた。別けても印象的だったのが、伊達政宗に殉じて自裁した侍たちの位牌が安置されている「羅漢の間」であった。こういう歴史的な「遺品」を目の当たりにすると、言葉として覚え込まれた知識が俄かに立体化され、具体的な輪郭を帯びて感じられる。本当に生身の人間がここで生きていたのだと思わされる。考えてみれば、当たり前の話でもあるし、同時に奇異な話でもある。この寺院は、単なる飾り物でも、観賞用の遺構でもなく、人間の生活と信仰の「現場」であったのだということが、感慨深く思われる。その寺院の廊下を数百年後、何も知らない幼い娘が、嬉しそうに歩き回っているのだ。

 瑞巌寺の後は、隣の円通院を訪れた。伊達光宗(伊達政宗の嫡孫であるらしい)の菩提寺である円通院は、豊かな苔と木々に覆われた静謐な聖域であった。入口の受付で、ベビーカーに乗った娘は、年配の僧侶たちに手を振って媚を売った。僧侶たちは嬉しそうに微笑み返し、娘に向かって声を掛けてくれた。いつから、こんなに愛想のいい子になったのだろう。

 庭園の奥まった場所には、崖を切り拓いて作ったと思われる空間に、複数の墓碑が佇んでいた。土砂崩れが起きたら、大変なことになるだろう。