サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

サラダ坊主風土記 「仙台・松島・塩釜」 其の六

 「塩竈すし哲」本店は、本塩釜の駅に程近いビルの中に入っていて、三階まで客席があり、我々は二階の座敷へ通された。回転寿司ではないので、幼児を連れて入れるのか不安であった。実際、一階のカウンター席は鈴生りの客で、板前が三人ばかり忙しそうに働いていた。子連れでも入れるかと訊ねると、年配の板前が「二階へどうぞ」と答えた。

 一番奥まった卓子に陣取り、娘の機嫌をイオンタウンで購入したパンで保ちながら、我々は「すし哲物語」と銘打たれた最上級の握りのセットを食べた。恐らく二度と立ち寄る機会はないだろうから、どうせなら一番旨いものを食べておきたいということで、我々夫婦の意見は一致したのである。

 私は寿司を好んで食べるが、魚以外の海産物、例えば海老、蟹、烏賊、貝類、魚卵などは悉く苦手である。だが、折角の機会なので、勇気を奮い起こして平らげることにした。どれも旨い。旨いが、いかんせん高い。その高さに見合う旨さなのかどうか、御世辞にも鋭敏とは言い難い舌の持ち主なので、確信を持つことが出来ない。

 デザートに出された桃のシャーベットを頬張り始めた辺りで、俄かに娘の機嫌が下り坂に傾き始めた。泣き叫び始めると、もう手が付けられない。一歳五か月ともなれば、張り上げる泣き声は劇しく、鼓膜を劈くように響き渡る。抱え上げて、混み合った座敷を脱出し、廊下へ出た後も一向に泣き止む様子を見せず、見兼ねた若い女性店員が寿司の形をした飴を持って、宥めに来てくれた。それでもすっかり猛り狂っているので、飴玉に見向きもしない。勘定を妻に任せて、私は娘を抱えたまま、一足先に表へ逃げ出した。

 細かい雨が降り出していた。松島は晴れていたのに、塩釜は先刻から糠雨が断続的に舞っている。塩竈神社も見物しておきたかったが、そろそろ仙台に戻って土産物を買わなければ、午後四時半の新幹線に間に合わなくなる。優先席に娘を挟んで座り、電車に揺られるうちに知らず知らず転寝していた。旅行で疲れるというのは贅沢な不満である。電車を降りた後、向かいに座っていた老齢の女性が、娘を乗せたベビーカーを押す妻に話し掛けてきた。座席に陣取って大人しく一人遊びして、特に騒ぎ立てもしなかったことを褒めてくれたらしい。

 仙台駅へ着いた後も、エスパル仙台東館のタリーズの硝子戸越しに、見知らぬ老夫婦に娘は機嫌良く手を振っていた。老夫婦もニコニコして、娘に向かって手を振り返してくれた。こういう和やかな局面を作り出せるのは、幼子の特権である。

 仙台駅の土産物売り場で物色をし、職場に持っていく為の、ずんだ餡を用いたサブレを購入した。勘定の際に、数年来使い続けてきた小銭入れが見当たらないことに気付いた。市川から柏の店舗へ移動するときに、部下だった社員が餞別にくれたアクアスキュータムの黒い小銭入れである。タリーズで水出しコーヒーを買ったときに忘れたのかと思い、慌てて引き返したが、考えてみれば、そのときの支払いはスイカで済ませたので、小銭入れには触れていない。最後に小銭を使ったのは何時だろうと記憶を辿って、思い至ったのは松島の瑞巌寺の近くにあった菓匠三全の店舗であった。「萩の月」をバラで三個ほど買ったのである。今更、松島に取って返す時間はない。そもそも、そこに確実に置き忘れたという自信もない。贈り主には申し訳ないが、これも運命と思って諦めた。

 土産物の購入や娘のおむつ替えなどに時間を費やすうちに、時計の針はあっという間に四時を回った。大急ぎで新幹線のホームへ上がり、ぐずる娘を抱えてデッキで子守唄を歌ってやった。疲れていたのか、直ぐに眠りに落ちた。

 新幹線は猛烈な速力で我々を仙台から拉し去り、東京駅まで送り届けた。火曜日の夕刻で、総武線快速の下り列車が暴力的なほどの混雑に襲われていることは十中八九、確実であった。津田沼まで三十分、そこから更に各駅停車に乗り換える手間を考えると、間違いなく機嫌が悪くなるであろう娘を連れて混み合った列車に乗り込むのは、頗る億劫な挑戦に思われた。そこで海浜幕張からタクシーに乗って帰るという経路を思いつき、長々と通路を歩いて京葉線のホームへ向かった。幸いにして優先席が空いていたので、娘と共にそこへ陣取り、彼女の機嫌を窺いながら、何とか最後の旅程を乗り越えた。

 海浜幕張駅で拾ったタクシーの運転手は、寡黙な短髪の大男で、車中にはココナッツの香りが濃密に漂っていた。ダッシュボードの周辺も、豹柄の毛皮のようなもので覆われている。愛想も雰囲気も、宮城で出逢った中年の運転手とは、雲泥の差である。彼の運転で我々は家の近くまで送り届けられ、二泊三日の仙台旅行は終幕を告げた。明日の仕事に備え、私は早々に仕度を済ませて眠りに落ちた。