サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

芸術と記憶(あるいは「祈り」)

 芸術とは「記憶」の異称ではないだろうか。

 芸術は、一瞬を永遠に変えたいという欲望に貫かれている。或る瞬間の出来事を永遠に記録しておきたいという欲望だけではない。つまり、単なる事実の記録だけに留まらない。失われてしまった何かを再び甦らせ、明瞭なイメージを与えて、永遠に遺しておきたいという欲望は、必ずしも厳密な事実の再現に固執しようとはしない。寧ろ、失われてしまった何かを甦らせる為には、往々にして「虚構」の建設が要請される。それが様々なフィクションを生み出す根本的な原動力である。

 たとえ虚構を語ろうが、事実を語ろうが、そういった問題は、芸術の本質的な機能や原理とは関係を持たない。重要なことは、或るイメージや記憶を、つまり確実に喪失されることが明らかであるような束の間の「命」のようなものを、永遠に語り継ぎたいという欲望の働きである。それが芸術的な営為の根底に存在する、最もプリミティブな衝動の性質である。

 この「語り継ぎたい」という奇怪な欲望は、人間性の根源的な領域に根差したものであると私は思う。私が今、こうしてブログを書いているのも、そうした「語り継ぎたい」という欲望の具体的な反映の一例であるだろう。そのとき、語り継がれる内容に社会的な価値が認められるかどうかという問題は、副次的で些末な事柄に過ぎない。そういう社会的な諸観念に先行する衝動として、この「語り継ぎたい」という原始的な欲望は存在している。

 だが、人間は何故、つまらぬことや、とても個人的な事柄を「語り継ぎたい」という異常な野心に憑依されてしまうのだろうか? こうした事情は、語りの主体が「一流の作家」であろうと「市井の無名の庶民」であろうと、無関係に存在する素朴な疑問である。世界的な傑作として既に評価の定まっている作品(今、私は主に小説を念頭に置いて自分の意見を語り、考察を油絵の如く塗り重ねている)であっても、そこには極めて些末で個人的な「細部」というものが随所に編み込まれているものである。極めて個人的な「細部」を語り継ごうとする衝動の主体として、一流の作家も無名の庶民も、定義の上では同一であり、同等である。一流の作家だから、歴史的な財産として受け継がれるべきものを提供し得るのだ、という考え方とは異なる次元において、何かを「語り継ぎたい」と希う欲望は万人に向かって等しく開かれている。その原理的な事実自体と、語られたものが社会的な淘汰の圧力に抗い得るかどうかという問題は、相互に異質な次元に属している。

 何故、人間は何かを語り継ごうとするのか。それは単なるコミュニケーションの問題に還元し得るとは思えない。つまり、見知らぬ誰かに語り掛けようとする欲望として、単純化して捉えるべきではないと私は思う。事態はもっと複雑に構造化されていて、色々な事情が相互に陥入し合っている。

 私たちが日常で「コミュニケーション」という言葉を使うとき、それは概ね「見知っている誰かとの関係性」を指している。言い換えれば、既に構築され、成立した関係性の中での色々な支障を「コミュニケーションの問題」としてラベリングしている。だが、芸術がコミュニケーションから切り離されるのは、それが出来合いの関係性における「伝達」や「通信」とは異質な「語り継ぎ」を志向する点に存している。言い換えれば、芸術とコミュニケーションとの区分は、伝達する主体と客体との「距離」に基づいて設定されているのだ。

 私が妻と交わす日常の会話は明白に「コミュニケーション」の一環である。それは私にとって妻が「既知の存在」として定義されているからだ。無論、私は彼女の実存の総てを知悉している訳ではないが、関係性の定義として、彼女のことを「既知の存在」と呼んで差し支えない。

 だが、芸術とは近しい人間に対するコミュニケーションとは全く異質な欲望に支えられていると考えるべきである。それは具体的な他者の顔を思い浮かべられないような状況の渦中に生起する欲望であり、言い換えれば「決して成就することのないコミュニケーション」として定義されるべきものである。日常的なコミュニケーションは、それが相手に届き、受理され、返信されなければ価値を得られない。少なくとも、送受信の成立を目指して実行に移されるのが、コミュニケーションという営為の本義である。だが、芸術は必ずしもコミュニケーションの「成就」を求めないし、本質的には、そのような「成就」とは無関係に営まれている。これは俗っぽい商業主義を指弾する為に組み立てられた論理ではない。生前、無名のままに社会の狭間へ埋没し、死後、何らかの力に導かれて巨大な名声を獲得することになった、数多の芸術的な天才たちのことを説明する為に持ち出された論理でもない。

 ヨーロッパの宗教画やアジアの仏像などを鑑みると、芸術の歴史というものの過半が「神」という超越的な存在に向かって捧げられてきたという事実に、否が応でも眼差しを向けずにはいられない。言い換えれば、そういう特権的な超越者に向けて捧げられる「祈り」のようなものが、芸術という枠組みの根底に備わっているのではないか。その意味では、先刻から私が再三述べている「語り継ぎたいという欲望」の対象は、特定の個人ではなく、飽く迄も「神」や「宇宙」や「歴史」や「世界」といった巨大な「天蓋」であると考えるべきであろう。芸術的な「遺言」の欲望は、身近に存在する親しい人々への「伝言」とは全く異質な心情によって構成されていることに、私たちは充分な注意を払うべきである。それは「世界」との対話であり、生身の人間との個別的な会話とは、所属する次元が決定的に異なっている。

 こうした「遺言」の欲望は、それが相手に聴き届けられたかどうかを確認する手段を持たない。その意味で、芸術的な「遺言」は原理的に「成就」という事態から見放されている。だが、そもそも「成就されるかどうか」ということは、芸術的な遺言の主体にとっては重要な「条件」や「分水嶺」とはならない。祈りを捧げるとき、主体は決して「聴き届けられること」を前提として祈るのではなく、ただ純粋に「祈る」のである。曹洞宗における「只管打坐」の理念のように、そこには実効的な目的のようなものは存在しない。この一瞬の、確実に失われてしまうであろう「光景」や「想念」を、決して自らが出逢うことのない対象に向かって捧げることが「芸術」の本領なのだ。