サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(衆院選・開票・改革・パフォーマンス)

*先日、衆院選が行われ、当初は政権交代の可能性さえ謳われていた、小池百合子氏の率いる「希望の党」が大幅に失速し、解体した民進党の残党から生まれた、枝野氏の「立憲民主党」が予想外の健闘を見せた。だが何れにせよ、小池氏と前原氏の間で生じた思惑の齟齬が一転して、野党全体への逆風を呼び込んだ事実は動かない。野党共闘の約束を違えた前原氏に対する共産党の志位委員長の怒りは、合理的なものであったことが証明された訳だ。

 今回の衆院選において、小池氏が途中で計算を誤ったことは、客観的な事実であろう。民進党の「合流」という乾坤一擲の際疾い奇策に際し、小池氏が世間の熱狂に水を差すように「排除の論理」を持ち出し、安保法制と憲法改正という二つの踏み絵を公認希望者に強いたことが、政権交代に向けた追い風を瞬時に凍りつかせてしまった。それさえも小池氏の計算の一環であったという証拠は、今のところは発見されていない。

 だが、小池氏の政治的策謀における蹉跌が、国家にとって不幸な出来事であったとは言い難い。少なくとも、選挙戦の過程において、小池氏を進取的な改革派の急先鋒と看做す世間の期待は、大幅に減殺されたのではないかと思う。「排除の論理」によって浮き彫りになった小池氏の政治的体質の内訳は、安倍政権と大差のない、保守的な成分によって構成されている。北朝鮮情勢の悪化に乗じて、アメリカの傲慢な元首に従い、国防の重要性を訴える安倍総理と、本質的な意味で異なるところはない、というのが、現在の輿論の下した判定ではないかと思う。そして、どうせ同じような信条の持ち主ならば、わざわざ不安定な「希望の党」に議席を与えてやる必要もないという醒めた判断が、燎原の火の如く広まったのではないか。小池氏が国政への移行を否定したことも、当初の追い風を鎮める決定打の一つに挙げられるだろう。小池氏が先頭に立たないのならば、一体「希望の党」に如何なる政治的な価値があるというのか。議席を得る為に雪崩を打って党籍を革めた、無節操な政治家たちの「雨宿り」の集団に過ぎないではないか。そうした否定的見解を、巧みに抑圧してきたのが小池氏の手腕である。しかし、肝心の小池氏が首相指名に値する場所へ進出しないのであれば、「希望の党」を国政の場で支援することは破滅的な行為としか受け止められない。誰が若狭氏や細野氏に、国家の首班となることを期待するだろうか。落選した「希望の党」の候補者の中には、戦場に打って出なかった親分への恨み言を並べる者も少なからず存在するようだが、それは見苦しい妄言というものだろう。「希望の党」が、小池百合子という人物の有する魔術的な演技力によって構築された蜃気楼であることを思えば、幻が幻であったことを非難するのは所詮、無様な泣き言に過ぎない。

 だが、俄かに人気が急上昇している「立憲民主党」の人々も、此度の望外の議席増に浮かれていられる状況にはない。リベラルと呼ばれる人々の政治的影響力が、二大保守政党の屹立によって壊滅させられなかったことは、バランスの観点から考えれば素晴らしい結果である。国民の政治的な信条が多様である以上、国政の場においても、様々な考え方を持つ議員が共存することは、デモクラシーの健全な機能を支える重要な礎石となる。

 しかし、リベラルという言葉で彼らの存在を括るのは、余りに粗雑な議論である。自民党に関しても、あの大所帯が悉く一枚岩である筈もない。使い古された図式に頼るだけでは、事態の真相を見究めることは出来ないだろう。

 安倍政権に寄せられる批判の中で最も核心的であると言えるのは、アベノミクスの効果や弊害云々ではなく、その独裁的且つ強権的な政治手法、いや、政治思想を対象としたものである。強硬な手段を用いて、安全保障の大義の下に、特定秘密保護法や安保法制を次々と成立させ、身内や親しい人間には内々に便宜を図る安倍総理の手法は、好意的に眺めるならば、確かに力強いリーダーシップを発揮していると言えるだろう。彼は目的を達成する為ならば、詭弁や強権も辞さないというタイプの人間である。弁舌は達者で、智慧も回るのだろう。第一次安倍内閣の失敗の経験も、今では政治家としての「肥料」として活きているのかも知れない。直接的な因果関係はさておき、世間の景況感は改善し、貿易収支は黒字を続け、足許の株価は高騰の一途を辿っている。良くも悪くも、彼は強固なリーダーシップを発揮して、日本の経済を好転させた政治家、というキャプションに相応しい場所に立っているのである。

 だが、その強引なリーダーシップが、所謂「立憲主義」を軽んじるような独裁のイメージを伴っていることも、厳粛な事実の一つである。与党に抗して枝野氏が創設した「立憲民主党」への追い風が、安倍内閣の強権的で傲慢な手法に対する反発を養分としていることは疑いを容れない。安倍内閣の手法は、立憲民主主義に対する侮辱と冒涜であるという論陣を張ることは、野党の政治的戦略としては自然なものだろう。

 けれども、安倍内閣に対する身も蓋もない「信頼」は侮り難い。彼の風貌が幾ら独裁者の肖像に酷似してきたとしても、景気が回復して雇用が安定するならば文句は言わない、他の政党に託したところで、より良い未来が切り拓かれるとも思えない、と考える人々は少なくない。私も、最優先で考えるのは自身の家庭の幸福と、生活の安定である。そうした庶民の草の根の感情に、野党よりも与党が報いているということも事実なのだ。衆院選の結果は、確かに野党の分裂によって齎されたものだ。だが、仮に野党が一丸となって結集したとしても、与党の優位を覆せたかどうかは分からない。枝野氏は「上からの政治」を「草の根の政治」に変えると大見得を切っている。その理念は美しいが、そうした理念自体が、所詮は「上からの政治」の一環に過ぎないと見限られたからこそ、合衆国ではトランプ旋風が巻き起こったのである。その意味で、立憲民主党の前途は少しも明るくないばかりか、寧ろ茨の道である。

 「希望の党」は、そもそも小池氏の持ち駒の集団のようなものだから、党員たちが代表の責任を問うても無益である。彼らは、小池氏の政治的博打の為に集められた泡銭のような存在に過ぎず、用済みになれば直ぐに離散せざるを得ないだろう。現在に限って言えば、小池氏の悪口を並べていれば気楽かも知れない。だが、仮に小池氏が代表の座を退いたら、あの党の「希望」は直ちに「絶望」に変わり、遠からず解党するに決まっている。そうなったとき、栖を失った議員たちは、何処の軒先へ雨宿りに行くのか。恥知らずにも、自民党の暖簾を潜りたがる人間も現れるに違いない。立憲民主党の急拵えの人気に便乗しようとする風見鶏も現れるだろう。全く馬鹿馬鹿しい限りである。

 小池氏に関しては、政治的パフォーマンスそのものに生き甲斐を見出しているように感じられる。都知事として、築地の移転問題や、オリンピックの事業費問題に無闇に強気な態度で嘴を差し入れたのも、その龍頭蛇尾の成り行きを徴する限りでは、単なる「改革芝居」に過ぎなかったのではないかという風に見える。その点では、安倍総理の方が未だ、筋が通っているように見えないこともない。少なくとも安倍総理は本気で「戦争」に備える為の国政を推し進めているように見える。その為には粗暴な手段も敢えて辞さないと肚を括っているようなところもある。その信念の善悪はさておき、少なくとも単なるパフォーマーではないという点では、小池氏よりも余程信頼に値すると、多くの国民は考えているのではないだろうか。

 因みに、テレビで流れる映像だけを材料に言うのだが、各党の党首たちの中で、最も強かで巧妙な演説を行なっているように見えたのは、公明党の山口氏であった。あの声の響き方、通り方は、如何にも他人の心根に染み込むような、下世話な魅力がある。どうにも絶望的に魅力がなかったのは、社民党の吉田氏であった。あんなに迫力を欠いた声音では、誰も耳を傾ける気になれないだろう。自民党の見窄らしい走狗にしか見えなかったのは「日本のこころ」の中野氏であった。無内容な保守的題目を偉そうに喚き立てるだけの人間に、誰が投票しようと思うのか、彼は本気で政治家を遣る積りなのか、一個の有権者として疑問を覚えた。あんなものは、場末の酒場で垂れ流すだけで充分な内容である。