サラダ坊主日記

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「死」という毒薬を弄ぶ男 三島由紀夫「盗賊」

 先日、三島由紀夫の処女長篇小説『盗賊』(新潮文庫)を読了したので、感想を認めておきたい。

 「仮面の告白」に先立って発表された「盗賊」は、三島由紀夫の遺した厖大で華麗な文業の経歴の中で、余り脚光を浴びない位置に佇んでいる作品ではないかと思う。後年の三島を思わせる文学的な特質の萌芽は随所に現われているが、実質的な出世作である「仮面の告白」と比較しても、その文体の未成熟は一読して判明である。人間の、短い言葉ではなかなか言い表すことの難しい微妙な心理的現象を、巧みに掬い上げて言い当てる持ち前の鋭利な観察眼は既に一定の強度へ達しているものの、冒頭から文体の弛緩が目立ち、全体の構成も随分と粗っぽく、作者の描いた事前の青写真に、作者自身の技倆が追い付いていないような印象を受ける。「観念的であるがゆえに様式的であり、様式的であるがゆえに明晰である」という三島の文体の独壇場が、未だ仕上がっていないように見えるのだ。

 「仮面の告白」や「愛の渇き」に比すれば数等、その出来栄えに瑕疵があると思われる、この若書きの「盗賊」には、それでも如何にも三島らしい主題や観念が織り込まれている。特に作品の中心的主題でもある「情死」という観念には、予定された死を掲げることによって、眼前の生を堪え難いものに変えるという抽象的な魔術の効果が、明確に期待されているように思われる。逆に言えば、この作品において、三島が企図したのは「自らの結婚式の当夜に心中を遂げる若い夫婦」という奇怪で蠱惑的なイメージを成立させることの一点に尽きており、それまでの物語的な前段は副次的な助走のようなものに過ぎない。藤村明秀が、所謂「小悪魔的な」性質を有する原田美子との関係の挫折から、一足飛びに「自殺」を志すという構成にも、偶然知り合った山内清子が、彼と同じように失恋の痛手から秘密裡に「自殺」を企てているという設定にも、そうした中心的なイメージへの一方的な隷属が見出される。その隷属が、作品の細部そのものが備えるべき小説的な強度の低下を招き、結果として文体の弛緩を招来しているように思われる。そして、前段となるべき部分の強度が脆弱である為に、助走の涯に辿り着いた唐突な第六章の芸術的な衝撃力が大幅に減殺されてしまうという悪循環を形成しているのである。

 その意味で、私は「盗賊」という作品に高い評価を与えることが出来ない。無論、総てが瑕疵と謬見に覆われているなどと、偉そうな批判を述べる積りはない。例えば終盤の「キルシエ」というレストランにおける、藤村子爵と新倉との微妙な心理戦を活写する三島の筆鋒には、人間の心理に対する異様な省察の情熱を燃やしていた作者の面目が躍如としている。だが、そうした細部だけを殊更に称揚することで、全体のアンバランスや、頻々と浮かび上がる文体の局所的な弛緩に、瞑目して接するべき理由を捏造することは難しいと言わざるを得ない。

 作品の内容に就いて触れておく。この「盗賊」という作品を構成している根源的な原理は、予定された「死」に基づいて「生」を捉えるという終末論的な幻想である。

 人はこのようにして、生の象徴である漠たる好奇心、その好奇心のいちばん純粋な形である遊戯的な好奇心を、徐々に未来の死の領域へとひろげるのである。死を人は生の絵具を以てしか描きだすことができない。生の最も純粋な絵具を以てしか。かくてただ遊戯にしか価いしなくなった生の無垢な幻影は、死のなかにかかる生と親近した遊戯的なもの、きわめて不真面目な或るものをしか見出ださなくなる。人は結局、死の中に、幼年時代がもっていた一つの意義を見出だすだろう。幼年時代、そこではあらゆる生が純粋な遊戯の形にまで高められ統一されていたのである。(『盗賊』新潮文庫 p.79)

 予定された「死」によって「ただ遊戯にしか価いしなくなった生」を獲得しようと試みるニヒリスティックな心理的詐術には、恐らく十代後半の最も多感な季節を戦時下に過ごさねばならなかった三島の個人史的な経験が反響している。同様の心理的現象、同様のタナトティックな欲望は「仮面の告白」にも「金閣寺」にも色濃く反映している。その意味で、確かに「盗賊」は三島の処女作に相応しい文学的特質を示していると言えるだろう。

盗賊 (新潮文庫)

盗賊 (新潮文庫)