サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「サラダ坊主日記」新年の御挨拶(2018年)

 新年明けまして、おめでとうございます。毎度御馴染み、サラダ坊主でございます。今年も何卒宜しく御願い申し上げます。

 年末から続いた連勤が漸く終わり、娑婆の空気を吸うように売場から解き放たれて、今日は昼過ぎまで眠っていた。クリスマスと年末年始の、遽しく異様な空気、殺伐として、尚且つ浮き立つような、あの独自の空気が消え去ったと思うと、何より安堵するが、一方では一抹の寂寥も覚える。

 大晦日の夜、閉店を間近に迎えた刻限、疲れ果てた躰を引き摺って、百貨店の従業員休憩室で茫然と莨を吸っていたら、携帯が鳴った。売場に応援に入っていた上司からの連絡だった。休憩室にいると伝えると、そっちに往きますという返事で、その段階で何事かの予兆を嗅ぎ取る程度には、私は現在の仕事に慣れていた。

 案の定、今期配属された新入社員の異動辞令の内示であった。何処かで待ち受けていた話ではあったが、実際に決定事項として聞かされると、複雑な感慨であった。彼女は新入社員らしからぬ落ち着きの持ち主で、勉強熱心でもあり、此度の繁忙期でも、課せられた責務にしっかりと応えていた。その意味では将来有望の人材である。だから、次の環境に進んで新たな経験を積み、更に視野を広げていける機会を与えられたということは、上司として、彼女の為に慶賀すべきことである。

 だが、一年弱の期間、一緒に働いてきた仲間が職場を去るのはやはり、心情としては辛いことである。出会いと別れは、何処の会社でも頻繁に繰り返されている事態であろうが、我々のような店舗社員は特に、渡り鳥の如く定期的に店を変わる。だから、こうした離別の経験には慣れ切っていると言えば慣れ切っている。それでも、特に自分が迎え入れた新入社員が去っていくのは、特に強烈な寂寥を齎す経験である。

 他方、私の代行者であり、彼女にとっては先輩に当たる二番手の部下社員は、此度の繁忙期、実に冴えない働き方であった。新入社員や、或いはアルバイトのスタッフたちが、与えられた役割と責務を全うする為に死力を尽くしている傍らで、彼女は店長の代行者という地位と権限を持ちながら、少しもその立場を活かすことなく、単なる一介の販売員として終始していた。そうした働き方に、私は憤怒を禁じ得なかった。彼女は責任を課せられる立場でありながら、その責任に対して不誠実な取り組み方をして、しかも、そういう自分の怠慢を直視していないのだ。新入社員がクリスマスと年末の予約管理という重責に懸命に取り組んでいるにも拘らず、新入社員のメンターに任じられた彼女は全く何の教育も指導も、進捗の管理さえもしなかった。所謂「丸投げ」という奴である。それで何か問題が起きても、彼女は新入社員に総ての責任を被せただろう。部下の失敗は自分の失敗であるという基礎的な考え方さえ、彼女は学んでいなかったのである。私は劇しい怒りを覚えた。良くも悪くも、部下に対して「無関心」であることは、上司として最大の罪悪である。褒めることも叱ることも中途半端にしか遣らない上司や先輩の下で、新人たちは働く意欲を削がれ、社会の迷宮に投げ込まれていくのだ。

 私は彼女を呼び出し、彼女の甘えや言い逃れを撲滅する為に、厳しい言葉を用いた。元々、色々な店舗で余り役に立たずに盥回しや飼い殺しにあってきた子である。こういうタイプの人間には固有の特徴がある。第一に、直ぐに謝罪するが、具体的な改善はしない。第二に、同じ過失を永遠に繰り返し続ける。第三に、無能であるにも拘らず、プライドが高い。端的に言ってしまえば、彼らは「ダメな自分」を愛しているのである。本当の意味での「自己否定」をしない。自己否定のポーズを示して、怒っている上司の眼を欺こうとするだけである。彼らは、このままの自分ではいけないと言いながら、本気で自分を変えようとは考えない。それは彼らの「甘さ」であり、依存的な性質の産物である。

 世の中には、ありのままの自分を肯定することを奨励するような言説が氾濫している。その精神衛生上の効用を否定する積りはないが、自分の愚かさをそのまま肯定して悦に入っている姿は、人間として醜悪である。人間は気高く、美しくあるべきではないか。愚かな自分を愛して、それで一体、何になるというのだ。