サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(契機と理由・潜在的なものと本質的なもの)

*或る現象が生じたときに、私たちはそれが生じた「きっかけ」や「理由」を探索し、特定しようと試みる場合がある。だが、これらの二つの観念、つまり「契機」と「理由」との間には、極めて抽象的な次元において、微妙な相違点を孕んでいるのではないかと考えられる。

 例えば、私たちが特定の「ヒト」や「モノ」に特別な愛着を懐くようになった場合、私たちは如何なる「理由」に導かれて、特別な愛着を有するようになったのかを分析しようと企てる。そのとき、私たちは「理由」と「契機」との区別を必ずしも明瞭には意識していない。或る特別な感情が発生するに至った「理由」と、その感情を惹起する際に重要な役目を担った「契機」との区別は、確かに実際の人生の現場においては、然したる意義を有していないかも知れない。だが、私はその区別を厳密に理解することが、本当はとても大切な心得なのではないかという漠然たる予感を今、見出している。

 「契機」とは、潜在的な形で予め存在していた「可能性」のようなものを、具体的な事例へと転換させる際の「引鉄」のような事象を指し示している。特別な愛着、もっと端的に言って「愛情」を懐くようになった経緯には必ず、何らかの偶発的で表層的な現象が介在しているものである。そもそも、そうした「愛情」の発生には、前提として「邂逅」とか「遭遇」といった言葉で表現されるべき偶然性の介入が要請されているのである。だが、それは「愛情」の発生の、直接的な「理由」と称すべきものだろうか。

 或る出来事が「契機」として具体的な仕方で作用する為には、そもそも「契機」を「契機」として成立させる為の本質的な構造が事前に準備されていなければならない。ライターのフリントが炎を生み出す為には、予めライターという着火の為の構造が先行して設計されていなければならないのである。その構造が成立していないときに、ライターのフリントを擦って火花を散らしても、安定した炎が形成される見込みは存在しない。

 あらゆる人間が、例えば「スポーツ」に強烈な関心を寄せるとは限らない。「鉄道模型」に熱中するとは限らない。或いは「情事」に絶望的なまでの嫌悪を示す人間もいるだろう。昨年末から遅々とした速度で読み進めている三島由紀夫の「禁色」(新潮文庫)には、稀代の美貌に恵まれながらも、女性を愛することの出来ない青年が登場するのだが、女に愛される為に必要な資質を十全に備えた男が皆、一様に女との性的な関係を望むとは限らないことも一つの否み難い事実なのである。言い換えれば、そこには「本質的なもの」の次元において、「潜在的なもの」を現実的な事態へ転換させる為の重要な条件が欠落しているのだ。「潜在的なもの」は単に、何らかの「契機」に媒介されることを待ち望んでいる仮定の状態に過ぎない。

 「本質的なもの」と「潜在的なもの」との間に穿たれた決定的な懸隔に就いて考えてみたい。「契機」は「潜在的なもの」を顕在化させる為の、一つの表層的な事象である。それは予め事物の裏面に存在している要素を、可視的な領域へと「移動させる」のだ。「契機」は、既に存在しているものを、不可視の暗部から可視の明るみへ移転させる為の、一つの引鉄に過ぎない。

 だが、或る物事が惹起された「理由」は、そのような「引鉄」の表層的な性質とは次元の異なる問題である。何がきっかけで、その事態や現象が惹起されたのかという問題と、何が理由で、その事象が招来されたのかという問題との間には、微妙な径庭が横たわっている。言い換えれば、「理由」の存在しないところに「契機」は有り得ない。これは両者を結果的に同一視する為の論理ではない。両者の次元が相互に異なっていることを強調する為に言うのである。

 本質的なものは、様々な状況や環境の変化を貫いて、持続的に維持される「原因」のことである。例えば、或る人物を好きになるとき、その過程で作り出される「契機」と「理由」との間には、本質的な差異が介在していると言える。「契機」は、周囲の状況に著しく左右され、安定的な根拠を有さず、時間的な検証の重みに堪え得ない。だが「理由」は、そうした状況の現象的な変容とは無関係に、或る堅牢な構造を保ち続ける。「契機」は偶発的なものであり、「理由」は普遍的なものである。或る潜在的な観念が、明るみに出るかどうかの境目は、絶えず流動的な変化の荒波に晒されている。従って「契機」を「理由」の代行者として転用することは、適切な判断ではなく、殆ど謬見に等しい。「理由」は「契機」ほど鮮明ではないし、簡潔に具体的な仕方で捉えることが非常に困難である。それは寧ろ、様々な「契機」の破綻を経由することで初めて見出される、一つの隠微な「闇」のような存在なのだ。どんな「契機」も、「それ」が出現したことを説明する根拠としては不充分であることが確認されたときに漸く、私たちは「理由」という不可解な暗部を思索の対象に据え始めるのである。