サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(結婚の社会的機能)

*「結婚」という法的な選択肢を自らの人生に引き受けることの個人史的な背景や経緯は、実に様々である。往々にして、現代の日本人は「結婚」を「恋愛」の幸福な結論として捉える考え方に浸り切っている。それは確かに間違いではないし、「恋愛」から「結婚」へと、私的な領域から公共的な領域へと段階的に、漸進的に移行を遂げることは、人間の社会的な成熟にとって重要な役割を帯びている。

 だが、国法によって規定された「婚姻」という制度の齎す果実を、所謂「恋愛」の良好で建設的な賜物として捉える考え方は、いわば「恋愛の永遠化」としての「結婚」という奇妙にロマンティックな幻想を夢見ることに他ならない。本質的に考えるならば、所謂「恋愛」が「恋愛」としての独自な現象や性質を示す根底には、それが「永遠」という理念への絶対的な「未踏性」を含んでいるという否み難い真理が横たわっているのである。「恋愛」と「結婚」との間に滑らかな放物線を見出すのは、余りにナイーブな信仰の産物であると言わざるを得ない。

 結婚という制度自体が、現代の社会の実情に十全に適応しているかという問題は、既に夥しい数の疑問符によって飾り立てられている。離婚件数も未婚率も、数十年前の日本と比べれば、殆ど異常な数値を示すほどの状況に到達していることを鑑みれば、それが社会的な構造との間に重大な軋轢を抱え込みつつあることは、基本的な事実として承認せざるを得ないだろう。その要因は様々であろうが、それが個人の選択肢の増加という重要な社会的進歩と緊密に相関していることは、概ね真実であろうと考えられる。

 批判的な意見を寄せられることは承知の上で書いておきたい。私見では、恐らく「結婚」という社会的制度の背負っている最も重要で本質的な機能は、子供を養育することである。かつて不妊が離縁の理由になったように、或いは現代においても同性婚の解禁に対する社会の動きが極めて緩慢であるように、子供を産み、育てるという理念の下に、家族という制度、婚姻という制度は法制化されており、それ以外の要素、例えば夫婦の幸福などというものは、結婚という制度自体とは本質的に無関係であると考えられる。

 極端に言えば、子供を持たずに、互いを人生の伴侶として選択し、協力して家庭を築いていくということだけに重点を置くのであれば、殊更に婚姻という制度に固執する理由は、既に薄弱であるような印象を受ける。結婚せずとも同棲することは可能であり、子供を持たないのであれば、婚姻の実態と同棲の実態との間に、それほど多くの相違点は存在しない。にも拘らず、婚姻という生活の形態に対する素朴で幻想的な憧憬が今も根強く生き残っているのは不思議な現象ではないか。

 男女の幸福ということだけを考えるならば、必ずしも婚姻という制度が必要であるとは思われない。だが、生まれてから一人前になるまでに極めて長い期間を要する人間の子供を正しく養育する為には、安定した家庭的環境が整備されることが望ましいのは無論である。

 言い換えれば、そうした婚姻の本質的な役割(「次世代の育成」という重大な使命)を等閑に付したまま、婚姻を男女の幸福に資するものとして捉え、過大な幻想を負託するのは、謬見の一種であるということになる。