サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(渇愛・結婚・永遠性)

*恋愛の情熱ほど、結婚の論理に敵対的なものは他に存在しない。この命題は、様々な現代的誤解に彩られて、なかなか直視されずにいる。多くの人々は、結婚というものは恋愛の延長線上に存在していると素朴に信じ込んで、その素朴な信仰の秘められた実情を疑ってみようともしない。少なくとも十代から二十代の若者たちの眼に、恋愛から結婚へという一般的な経路の深刻な内実が、精密な図面として映じているようには思えない。実際には、自分の両親の姿を鑑みるだけで、恋愛の情熱が結婚の幸福とは少しも無関係であることを悟るための手懸りは容易に得られる筈なのだが、わざわざ自分の両親を、そういう色恋沙汰のロールモデルに選ぼうとは考えないのが、健全な若者の精神的な態度でもあるだろう。

 確かに、結婚という或る巨大な制度、数千年、或いは数万年の昔から、時代に応じてその姿形を頻々と革めながらも、執拗に継承されてきた長大な社会的伝統が、その内側に恋愛の情熱を包摂し得るだけの容量を備えていることは、客観的な事実の一つである。だが、それゆえに直ちに結婚と恋愛とを滑らかな方程式で等しく接合してしまうのは、明らかに早とちりである。

 恋愛の情熱というのは、文字通り「情熱」であり、気化したガソリンに火花を散らすような行為である。勿論、その「燃焼」の形式には様々な事例が有り得るが、基本的には、感情の劇しい高揚と爆発、或いは乱高下を含む現象である。言い方を換えれば、恋愛の世界においては銘々の「感情」だけが総てである。理窟も正義も容喙する余地はない。好意が持続すれば関係も持続し、好意が消滅すれば関係も当然のことながら消滅する。そのときに例えば「ずっと一緒にいようって言ってたじゃないか」という具合に、熱病患者の譫言のような初期の誓約を持ち出しても無意味である。恋愛においては、過去の感情の履歴には何の価値も、拘束力も認められないのが規則である。昨日の情熱が、明日の離別を予防することは出来ない。「心変わり」ということは、恋愛の世界における最大の、最も重要で動かし難い摂理であり、何人もその強靭な支配力に叛逆することは出来ないのだ。

 恋愛が「感情」だけで構成されているということは、恋愛が理窟や契約や制度といった社会的観念に少しも馴染まないものであることを意味していると同時に、それが「永遠」という観念から最も隔てられた場所に存在していることも明証している。何故なら、どのような事象に関しても共通して言えることだが、「永遠」を実現する為には、本質として刹那的なものである「感情」を基盤に据えるのではなく、銘々の感情を超越した次元に、その根拠を求めなければならないからである。言い換えれば、恋愛は根本的に、反社会的な性質を宿しているのであり、その本質は「刹那的であること」に存する。もっと平易な表現をするならば、恋愛には必ず「離別」が附随するのである。一方、結婚という原理は「永遠」を希求するために編み出された制度であり、少なくとも「死が二人を別つまでは」その関係に終止符が打たれることはないという建前を採用している。それが場合によって「離婚」という結論に到達し得るものだとしても、その経験的な事実は決して結婚の「永遠に対する志向性」を否定する材料にはならない。

 結婚は、感情の原理を採用しない。感情の原理を採用する限り、結婚は「法制化された恋愛」以上の社会的な役割を担わないということになってしまう。家庭は人類を再生産するための領域であり、また最も基礎的な共同体の単位を形作るための現場である。共同体の紐帯が、銘々の感情の波動に基づいて構成されるとしたら、早晩、その致命的な難破は必ず避けられないということになるだろう。従って結婚は、恋愛という感情的な熱病とは切断された、異質なステージとして把握されねばならない。結婚という制度は、伴侶に対する狭義の愛情(恋人たちの情熱に類する感情)の有無によっては左右されない、堅牢な性格を確保する必要に迫られている。言い換えれば、結婚は「恋情」ではなく「愛情」によって維持され、運営されねばならないという構造的な宿命を帯びているのだ。

 愛情は、極めて理性的な感情であると言うべきだろう。束の間の情熱的な判断に依拠するのではなく、数十年の長大な時間的規模において、綜合的な見地から、銘々の行動の規範を決定するような理性的な判断が、結婚という世界においては最も重要な意義を有している。それは相手を劇しく求める「恋情」の麻薬的な愉楽から最も遠く隔たった領域に存在する、或る成熟した情念の形態である。理性的であること、それは愛情という神聖な力を行使する上で、最も基礎的な条件であり、理性的であることの抛棄と、愛情の抛棄との間には直接的な相関性が結ばれている。

 無論、逆の方面から眺めるならば、恋愛の情熱は「理性的なものを破壊する愉楽」であると定義することが出来るだろう。理性だけを信奉することが地上の正義だと断定することは出来ない。だが、少なくとも「理性的なものを破壊する愉楽」という恋愛の醍醐味が、極めて反社会的な性質を有していることに就いては、無自覚であってはならないと言える。