サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「結婚」に就いて

 結婚は、恋愛という感情的な熱病とは根本的に異質な、或る社会的な制度である。恋愛が常に個人の情緒だけを頼りに営まれるのに対し、結婚は飽く迄も社会的な制度の規定に拘束されている。恋愛は常に主観的な営みであって、それが傍目には如何に不毛で愚昧な過ちに占められているように見えたとしても、当人同士の間で幻想的な情熱が充分に燃え盛っているのであれば、第三者が容喙する余地は微塵も存在しない。

 だが、恋愛の良し悪しが専ら主観的な基準に則って判定されるのとは対蹠的に、結婚の良し悪しは概ね客観的な基準によって裁定され得る。恋愛は感情の消滅が関係の消滅であるが、結婚は必ずしも感情の消滅だけで関係の消滅を正当化することは出来ない。言い換えれば、結婚は情熱によって支えるべきものではなく、理性的な判断によって賢明に運営されるべき社会的な関係性の単位である。それは社会の附属品であり、部分であるから、社会の合意や規範と無関係に、個人の主観や恣意に基づいて運営されてはならない。

 そもそも、恋愛には社会的な承認など不要である。「二人だけの世界」というのが恋愛の特質であり、逆説的な意味での「道徳」なのだから、そこに外在的な規範を持ち込むのは御門違いである。二人の主観の幻想的な融合が、世界の総てを覆い尽くしてしまう、その心理的な魔法が恋愛の醍醐味である。それは根本的に反社会的で、ナルシシスティック(narcissistic)な関係性の形態なのだ。

 だが、結婚は社会的な祝福の対象であり、法律による庇護を享受し、共同体の存続に貢献する関係性の形態である。その入り口、或いは深層に、恋愛のナルシシズムが底流しているとしても、少なくともその外皮は公共的な正当性の染色を受けている。社会的に公認され、祝福される恋愛は、そのような祝福を受けた時点で、「二人だけの世界」という閉鎖性を手放すことを命じられるのである。

 「二人だけの世界」という閉鎖的な妄想を、必ずしも否定する訳ではない。社会的な観点から眺めれば、そのように映じるというだけの話である。その甘美な快楽を否定するのは、無味乾燥な話である。社会的な正しさだけを望むのは、人間の本性に反する欺瞞に他ならない。それは確かに清廉潔白、品行方正であるが、見栄えのする欺瞞は「清濁併せ呑む」という種類の美徳へ永遠に辿り着くことが出来ない。

 「二人だけの世界」を破壊する要素は様々である。結婚には身内が必ず絡むものであるし、職場や友人、行政といった多様な立場の人間とも関わりを有するのが普通である。つまり、結婚とは結婚の当事者だけでは完結し得ない関係性の形態なのである。その意味で結婚は社会的であり、公共的である。そして「二人だけの世界」という甘美な熱病を破壊する最大の要因は、紛れもなく二人の「子供」である。子供の誕生は、恋愛の幻想的な興奮を鎮静化する最良の特効薬である。この崇高で無邪気なトリックスターは、恋人たちの主観的な妄想を思う存分、攪乱してくれる。

 結婚が社会の存続に寄与する最大の美質は、それが子供を養育する優れた揺籃の礎となる点に存する。家庭は未来の人類を慈しみ、育成する最良の拠点である。そして、子供の誕生は、単なる恋人の延長線上に存在していた二人を「夫婦」として錬成する重要な契機として働く。それは社会的な成熟に他ならず、恋愛の根源的な自閉性から脱却することを意味する。恋愛の反社会性は、結婚の社会性によって扼殺される。少なくとも、私たちの住む世界は、そのように形作られている。

 無論、総ての夫婦が子供を授かる責務を負う訳ではない。望んでも子供を得られない夫婦は大勢いるし、夫婦の合意の下に敢えて子供を持たない場合もあるだろう。子供を持つかどうかの選択の自由は、法的に保障されるべき事柄である。だが、子供を持たないことによって、恋愛の反社会性が分泌する甘い汁を吸い続けようと考えるのは、軽佻浮薄の態度である。そもそも、結婚は制度化された恋愛ではない。恋愛は本質的に、如何なる制度にも馴染まない、孤立した関係性であり、制度化されることによって消滅してしまうような事象である。結婚は、性愛の原理が支配する領域に留まるものではなく、もっと根源的な「共闘」の形態なのだ。