サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(「神」という、或る垂直な関係性)

夏目漱石は百余年前の昔、「草枕」の冒頭に「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」という著名な文句を書きつけた。一世紀が経っても、地上の事情は変わらない。大半の問題は人と人との狭間で起こり、複雑に絡み合う心理の文様が、大抵の問題を一層荷厄介なものに仕立て上げる。それが浮世の忌まわしい摂理である。

 喜びと悲しみは表裏一体である。愛憎相半ばするのが巷間の常識である。無論、禍福は常に地上に氾濫していて、儘ならない人の心には、愛する歓びも憎み合う苦しさも両方備わっている。それを「俗世」とか「俗塵」という言葉は名指しているのだろう。私も俗人である以上、「草枕」の画工のように悠然と、高雅な無何有の郷を徘徊する自由は許されていない。世俗の雑事に縛られて齷齪するのが今生の定めである。それに不満を訴える積りもないが、時に心が荒んで草臥れることもある。

 そういうとき、つまり人間だらけの世界に倦んだとき、天を仰ぎたくなるのは、心の奥底に埋め込まれた人類的な感情、つまり宗教的な感情の残滓なのかも知れないと思う。世間の理解を受けられないとき、或いは自分の想いが巧く周囲へ通じずに空転するとき、天を仰ぎたくなるのは、神という超越的な理念への祈りなのかも知れない。あらゆる宗教が、地上的なもの、世俗的なものからの超越を欲するのは、それが宗教的な感情の根幹を成す衝動であるからだ。神の実在云々は、その衝動の根源的な性格に比べれば、恣意的な表象の問題に過ぎないのではないか。人間を超越した存在に対する縋るような信仰は、それを信じなければ遣り切れない人々の心が生み出した魔術である。その魔術に客観的な詮議を加えても無益なことだ。人間に対する絶望が生み出した澄明な祈り、人間の世界の絶望的な相対性に対する嫌悪が育んだ「垂直的関係」を、科学的な無根拠を理由に断罪しても、有効な損害は与えられないのである。

 人間ではないもの、人間を超越したものとの垂直な関係性を信じることは、煎じ詰めれば、人の世で生き延びていく為の切実な手段であり、己の実存を破綻させない為の支えを確保することである。つまり、超越的なものを信頼し、彼岸の浄土を夢想することは必ずしも、現実の世界を否定することには直結しないのだ。人は哀しいほどに「生きよう」と試みる存在である。その手懸りを現実の俗塵の渦中に見つけられるのならば便利だが、そのように思えない場合も多々あるだろう。そういうとき、超越的な紐帯を信じることは、それがどんなに浮世離れして見えたとしても、当事者にとっては切実な祈りの形態なのである。生きようと願うことは、それ自体が既に倫理的な行為である。