サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「人間」は「人間」を所有出来ない

 かつて世界と人間は超越的な「神」によって支配されていた。或いは「神」の名の下に、人間によって支配され、所有されていた。だが、時代が進むに連れて、人間が人間を所有物の如く扱うことの道徳的弊害が自覚されるようになり、倫理的な要請が高まり、フランス革命奴隷解放宣言や公民権運動、アパルトヘイトの撤廃といった重要な歴史的事件が勃発し、私たちの世界は少しずつ「人間が人間を支配し、所有するのは罪悪である」という認識を共有するようになった。

 無論、それは飽く迄も漸進的な変化に過ぎず、私たちの精神的発達は未だに途上である。道半ばである。人間は人間を所有出来ないという道義的な言説は、その重要性を公共的な領域では充分な尊敬を以て認められながらも、人間の精神に蔓延する濁った暗部の奥底にまでは未だに浸透していない。人は誰しも他人を所有することに血道を上げる。親は子供を所有し、夫婦や恋人は互いを所有し、上司は部下を所有し、そうすることが当然の権利であるかのように錯覚して、少しも恥じようとしない。場合によっては、そうした所有への欲望は相手に対する愛情や恩情の発露そのものであると信じられ、そうした考えに疑義を呈することは恩知らずの傲慢な振舞いであるかのように非難され、排撃されることさえ珍しくない。

 だが、この当然の哲理、つまり「人間の所有不可能性」という至極尤もな命題の本質的な意義に立ち帰ることは、私たちの人生を高め、世界を希望に満ちた方向へ少しでも前進させていく為には、必要不可欠の階梯であり、大切な手続きである。「所有」という問題は、私たちの内なる欲望が生み出す普遍的な主題であり、その歴史的背景は長大且つ深遠である。かつてアメリカの白人たちは、黒人の奴隷を所有し、それを物質的な財産として取り扱うことに何の疑問も羞恥も感じていなかった。或いは、日本の尊大な家父長たちは、妻や子供を自分の所有物と看做すことに何の痛痒も覚えず、それを自らの授かった当然の権利と信じて疑わなかった。こうした支配的な意識は、現代においても消滅していない。公共的な場面で、そのような「人間の所有」という欲望を露骨に表明することは、社会的な意識の変容に伴って徐々に禁圧されつつあるが、表向きは禁じられていても、それが暗闇の内部へ潜行しただけならば、問題は根本的な解決を見たとは言えない。愚かな親が子供を虐待するとき、その密室の世界では、人間の所有は禁じられているという倫理的な命題は極めて容易に、安直な仕方で蹂躙されているのである。

 人間が誰かを所有することは、その人間の固有性を毀損し、否認し、峻拒し、遂には破壊してしまうということであり、その重大な罪悪は、狙われた相手の人格に決して消えることのない深甚な傷痕を刻み込む。誰かに所有されるということは、自分という人格を破壊されることであり、独立した存在であることを禁じられるということである。他人の命令や意向に対する全面的な隷属は、その人間の生命力を衰微させ、正常な判断力や思考力を著しく減退させる。それは容易に人を物理的な死へと追い込む、根源的な暴力の発露である。例えば私たちはその具体的な事例を、アウシュビッツラーゲリに見出すことが可能である。

 しかし、誰かを所有したり管理したりすることが現代でも、組織や共同体を運営する上で不可欠の過程であると信じられていることは、素朴な現実である。仮にアナーキズム的な考え方に染まって国家による支配を廃絶し得たとしても、人間が生得的に或る「共同性」の枠組みの中で生きることを志向する存在である以上、こうした「人間の所有」という問題は絶えず私たちの意識を占有し続けるだろう。所有は、人類の肉体に刻印された、否み難いほどに根源的な要請の形態である。だからこそ、私たちは「人間の根源的な所有不可能性」という理念に関する思索を断じて途絶させてはならないのである。つまり、理念は現実に即さないことによって価値を失うのではない。寧ろ理念は積極的に、眼前の現実からの「離反」を志すべきである。そうでなければ、あらゆる理念は北極星のような指導力を喪失し、眼前の現実の単なる追認以上の役割を担うことが出来なくなってしまう。

 人間による人間の支配は有史以来、一度として途絶えたことのない普遍的な伝統である。仮に絶対的な支配者を放逐し、その地位を破壊したところで早晩、新たな僭主が他人を奴隷のように支配することになるのは眼に見えている。年端の行かない幼子の間にさえ、所謂「権力」の垂直的な関係性は燎原の火の如く燃え上がり、隅々まで浸蝕してしまう。権力は人類の宿痾であり、劇薬を想起させる危険な通弊である。だが、誰かが人間の集団を支配しなければ物事が纏まらず、無政府的な惨状が露呈することも事実なのだ。優れた君主が善政を布くことは、結果として人類を幸福にする。だが、如何なる明君であろうと、独裁に由来する弛緩した腐敗の危険を孕んでいることも事実である。つまり、所有という問題には、深刻な両義性が関与しているのである。

 しかし「人間は人間を所有出来ない」という倫理的な価値観を、そのような「権力の不可避性」に基づいて軽視したり冷笑したりするのは、余りに愚昧な態度である。或いは、傲慢な姿勢であると言い換えてもいい。本質的な意味で、人間は人間を支配することが出来ない。様々な手段を通じて、他者の心身を収奪し、極めて陰湿な方法で、その自主性や独立性を捻じ曲げてしまうことは可能である。だが、それでも他人が他人であるという根源的な事実までも書き換えてしまうことは、原理的に不可能なのだ。

 他者を支配することへの欲望、簡潔な言い方を選ぶならば「権力への欲望」は、自他の境界線を破壊しようと試みる衝迫であり、その意味では「恋愛」さえも「権力への欲望」の性的な変奏であると看做すことが可能である。自他の境界線を破壊し、総てを「自己」に還元しようとする欲望は、それがサディズム的な他者への専制に傾斜する場合でも、マゾヒズム的な他者への没入に傾斜する場合でも、何れにせよ「自己」の強制的で野蛮な拡張を願っているという点では共通している。「一つになりたい」という、この極めて根源的な欲望は、性的な領域でも政治的な領域でも、その根幹に位置して、総てを深層から操り、統御しているのである。

 自己を無限に拡張する為に、他者の「他者性」を解除するという目論見は、例えば「母胎回帰」に対する象徴的な欲望に由来するなどと、尤もらしいが随分と大雑把な見解を述べてみても始まらない。ただ、そのような「他者性の否定」が「母胎回帰への願望」に含まれている社会的な退嬰性を根深く反響させていることは、概ね承認し得る事実ではないだろうか。独裁的な君主が如何に強烈に、他者への残酷な攻撃性を発揮していたとしても、その尖鋭な攻撃性の根底には「他者からの遁走」という脆弱な構造が介在している。「他者性」という概念は、例えば「恣意性を阻むもの」という具合に読み替えることが出来る。「私の思い通りにならないもの」が「他者性」の本質的な条件であり、そのような「他者性」に対する敬意は、時代と環境によっては敬虔な宗教的信仰として顕現する。

 だが、神を信じることによって超越的な救済に与ろうとする敬虔な信徒の欲望は、煎じ詰めれば「他者からの遁走」に他ならない。「他者性」を是認し、自らの「恣意性を阻むもの」を受容するということは、超越的な救済を希求することとは異質な営為である。本当の意味で「他者性」を肯定する為には、超越的な救済を望んではならない。それは結局のところ、如何に敬虔な外貌に覆われていようとも、超越的且つ絶対的な「他者」である筈の「神」を、間接的な仕方で支配しようとする欲望の形態に過ぎないからである。