サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

三島由紀夫「禁色」に関する覚書 4

 引き続き、三島由紀夫の『禁色』(新潮文庫)に就いて書く。

④或る芸術家のサディズム的な欲望(「精神」と「感性」の二元論的構図)

 この作品の前半を占める物語の主要な枠組みは、老齢の作家である檜俊輔の迂遠な復讐譚である。彼は過去に数多の「愚行」を積み重ねてきた人物であり、老境を迎えた現在も若い女に懸想して、無惨な失敗に終わっている。彼は今まで幾度も女性に裏切られながら、しかも女性に対する恋着の感情を捨てられないという典型的に愚昧な男性である。

 俊輔が女性全般に対して懐いている個人的な憎しみは、度重なる背信によって培われたものであるが、それが南悠一の有する女性への嫌悪(同性愛者であるが故の嫌悪)と完全に対蹠的な意味合いで合致していることによって、両者の共謀は成立する。但し、俊輔が女性に対して抱懐する感情の論理が、極めて複雑な様相を呈していることに読者は留意せねばならない。俊輔の度し難いミソジニー(misogyny)は確かに、個人史的には彼がこれまで味わってきた女性関係における数々の齟齬と屈辱によって醸成されたものだが、その根底に「精神的なもの」への嫌悪が伏流していることを看過すれば、私たちは「禁色」という作品の或る重要な側面を理解する手懸りを失うことになる。

 それは醜いとしか言いようのない一人の老人の写真であった。尤も世間で精神美と呼ばれるようないかがわしい美点を見つけ出すことは、さして困難ではなかったろう。広い額、削ぎとられたような貧しい頬、貪欲さをあらわす広い唇、意志的な顎、すべての造作に、精神が携わった永い労働の跡が歴然としていた。しかしそれは精神によって築かれた顔というよりは、むしろ精神によって蝕まれた顔である。この顔には精神性の或る過剰が、精神性の或る過度の露出があった。恥部を露わに語っている顔が醜いように、俊輔の醜さには、恥部を隠す力を失った精神の衰えた裸体のような、一種直視の憚られるものがあったのである。

 近代の知的享楽に毒せられ、人間的興味を個性への興味に置きかえ、美の観念から普遍性を拭い去り、この強盗はだしの暴行によって倫理と美の媾合を絶ち切った天晴れな連中が、俊輔の風貌を美しいと言ったからとて、それは彼らの御勝手である。(『禁色』新潮文庫 pp.8-9)

 ここには「精神的なもの」に対する俊輔の半ば自虐的な嫌悪が明瞭に告示されている。過剰な精神性によって蝕まれた醜貌という表現には、精神的なものが肉体的な美しさを毀損するという命題が自然に織り込まれている。それは外面の美しさが内面的な価値によって左右され得る近代的な価値観の反映である。

 近代の特質の一つは「純然たる表面」という価値を否定した点に存する。内面的なものの優位性を高め、個性的なものの価値を称揚する近代的な原理は、美しい肉体と外見を何よりも力強く称揚する古代的な原理(それが本当に古代の特質であるかは別として)の純朴な性質を放逐した。鍛え抜かれた肉体よりも、卓越した知性に大きな社会的価値を認める精神的な「エリーティズム」(elitism)は、俊輔自身の内在的な宿痾であるが、彼の抱え込んだ両義的な苦悩は「精神的女性という手合」(p.23)に対する嫌悪によって齎されている。「精神的女性」に対する嫌悪は、俊輔にとっては辛辣な自己嫌悪に等しい。彼は自らの醜貌を恥じて、外面的なものの価値を謳歌する青春を過ごすことが出来なかった。その不幸な履歴が、彼の実存に「精神性の或る過剰」という特徴を刻印したのである。

 女のもつ性的魅力、媚態の本能、あらゆる性的牽引の才能は、女の無用であることの証拠である。有用なものは媚態を要しない。男が女に惹かれねばならぬことは何という損失であろう。男の精神性に加えられた何という汚辱であろう。女には精神というものはないのであり、感性があるだけだ。崇高な感性なんていうのは、噴飯物の矛盾であって、出世したさなだむしというに等しい。(『禁色』新潮文庫 pp.22-23)

 この露骨に差別的な言辞に基づくミソジニーの表明は、女性に対する俊輔の両義的な執着を示すものである。彼はどうしようもなく女性に魅了されてしまう性格の持ち主でありながら、自らは過剰な精神性の庇護によって生き延びてきた半生を有している。

 いかな俊輔も嫁の来手がないところからやむをえず泥棒や狂人の女を選んで娶ったというわけではない。世間にはこの有為な青年に思いを寄せる「精神的な」女たちもいたのである。ところが精神的女性という手合は、女の化物であって、女ではなかった。俊輔が恋し裏切られる女は、彼の唯一の長所でもあり唯一の美でもあるところの精神性を、頑として理解しない女に限られていた。そしてそれこそは本当の女、正真正銘の女であったのである。俊輔は美しい女をしか嘗て愛さず、己れの美に自足し、精神性によって何ら補われる必要を認めないメッサリイヌをしか愛さなかった。(『禁色』新潮文庫 pp.23-24)

 彼が求めているのは、精神性によって高められる必要を持たない、純然たる「美しい肉体」であり、或いは純然たる「感性の世界」における愉楽である。過剰な精神性によって蝕まれた肉体を有する俊輔の憧憬が、一切の精神性を排除した美しい女だけを欲するのは自然な理窟である。彼は観念や理窟によって粉飾された美しさに倦怠しているのだ。或いは、精神性に寄り掛かった個性的な美しさに、同族嫌悪を覚えてしまうのだ。

 だが、このような感受性の持ち主自身は明らかに己の肉体に充足しておらず、精神性による補填を日常的に必要としている。言い換えれば、このような感受性自体が既に精神的なものの濃密で邪悪な放射能を存分に浴びてしまっているのだ。若しも彼自身が精神性による補填を享受せず、自らの肉体と感性に埋没した状態で生きていたとしたら、敢えて精神性の有無を、愛する女性の選択に際しての審美的な基準に採用する必要は生じなかっただろう。俊輔の性的な嗜好には、相手の存在から精神的な要素を一切合財剥奪して、単なる物理的な肉体へ還元してしまおうと企てるサディズム的な特徴が露骨に刻み込まれているように見える。南悠一を一種の「芸術作品」に仕立て上げようとする陰謀も、煎じ詰めれば同じサディズム的性向に、その淵源を有しているように思われる。彼が「個性的な美しさ」を軽侮して「普遍的な美しさ」を称揚するのも、同質の感受性の反映であって、あらゆる「個性」が「精神」との間に根本的な契約を締結している事実を考慮すれば、彼が個性を言い訳に用いない絶対的な肉体性に偏執的な愛情を示すのは当然の理窟であると言える。

 個性という観念は、その人間の固有性や自主性を尊重する考え方と不可分であり、言い換えればその人間に固有の「精神」の働きを認めることに他ならない。だが、俊輔のサディズム的な感受性は、情交の相手を純然たる「物質」=「肉体」へ還元することによって最高の興奮に到達する性質のものであるから、彼が「精神」を疎ましげに呪詛するのは自然な現象なのである。だが、相手を肉体へ還元しようと試みる志向性と欲望そのものは、決して肉体と感性の世界から萌芽するものではなく、それ自体は明白に「精神」の産物である。精神的なものへの嫌悪は、肉体の側から発する要求ではなく、飽く迄も精神的なものの内側で生起する分裂的で両義的な感情なのだ。

禁色 (新潮文庫)

禁色 (新潮文庫)