サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

ハラスメント、即ち「関係性の事故」に就いて

 先般、財務省福田淳事務次官が、テレビ朝日の女性記者からセクシャル・ハラスメントの廉で告発され、メディアや国会は大騒ぎになっている。私は事態の審らかな経緯を理解していないが、告発された当人は自分の言動がセクハラに該当するとは認めず、寧ろ今回の件を報道した発信源である新潮社に対して、名誉毀損の訴えを起こすと息巻いているらしい。テレビ画面の向こうで、マスコミに囲まれながら釈明する福田氏の発言は不得要領の極みで、何を言いたいのか不明瞭な答え方であるが、兎に角自分の落ち度を認めようという姿勢は微塵も見られない。そのくせ、事務次官の職は退くのだから、結局彼が何を考えているのか、本音のところが余計に曖昧に霞んで感じられる。濡れ衣だと言い張るのならば、何故事務次官の地位を擲つ必要があるのか、曲がりなりにも艱難辛苦を乗り越えて漸く辿り着いた社会的な栄誉の座を、自ら冤罪だと言い張りながら罪人のように諦めるのは一体如何なる料簡に基づく決断なのか、意味不明である。少なくとも傍目には、福田氏が何らかの後ろ暗い記憶を抱え込んでいるように見えるのも当然である。辞めれば文句はないだろうと言わんばかりの幕引きの手法には、金輪際反省も改悛もする気がないという寒々しい底意が透けて見える。何とも卑しく浅ましい事件である。

 財務省事務次官という顕職には、誰でも憧れればなれるというものではないだろうし、この国の生粋の選良だけがその座席を占めることを許される極めて栄光に満ちた地位であろうかと思われるのだが、にも拘らず、あのような低俗な発言を行なったことが事実であり、しかもそれによって或る女性の精神に不快な傷痕を刻み込んだことが事実であるならば、救い難い愚者として扱われても文句は言えないだろう。事務次官を庇いたがる麻生財務大臣の種々の発言も、絶望的なまでに男権主義的である。もっと言えば、彼らは端的に人を見下している。百歩譲って、人を見下すのも、猥褻な欲望を懐くのも個人の自由であろうが、それを世人の前で剥き出して一向に恥じず、悔い改めもしない。悔い改める必要もないほどに自分は偉いのだと信じ込んでいるのだろう。

 但し、これは他人事ではない。何らかの地位を、仮に事務次官のような顕職でなくとも、部下や後輩を抱えるような立場に昇ったとき、権力の多寡に拘らず、兎に角何らかの権力を持ったと本人が認識したとき、大概の人間は、私も含めて偉そうな態度を取るだろう。そして大概の男性は、女性に対して何らかの性的な関心を持っているだろう。つまり、権力者としての驕慢と、女性に対する性的関心を槍玉に挙げるならば、その批判の矛先は大概の男性に跳ね返る筈なのである。無論、私も部下を抱える立場で、屡々偉そうな言動に走るし、女性に対する関心も人並みに持ち合わせている。その意味では、私はあの助平な事務次官と同類なのである。

 但し、それが結果的に相手からの告発を招き、しかも告発されながらも厚かましく居直るように報道した企業を名誉毀損で訴えると息巻き、辞任会見でも一向に自分の落ち度を認めず、不明瞭な理由で職を辞して表舞台から遁走を図ろうとする福田氏の一世一代の醜態には、周囲の人間との「関係性」を把握する能力の深刻な欠陥が露呈しているように感じられ、その点に私は何とも痛ましい惨めさを見出さずにはいられない。下らない助平親爺だと斬り捨てるのは簡単だが、助平な人間が悉く、あんな見苦しい茶番劇を演じる訳ではない。

 煎じ詰めれば、性的なものに限らず、あらゆる種類のハラスメントは「関係性の事故」である。或いは、人間関係における病、権力に関する病である。自分と他人との関係性が如何なるものなのか、どういう構造を持ち、どういう原理で動いているのか、それを見誤ることで発症する重篤な災厄である。福田事務次官は、被害を受けた女性記者と自身との関係性を、如何なるものとして定義していたのだろうか。報道が事実ならば、福田氏が女性記者に対して繰り返した発言の内容は、露骨に性的なものであり、端的に言って下品であり、余り親しくもない女性は固より、一定の親密さを備えた関係であっても、危険な水域に達する次元である。あのような発言を女性記者に対して繰り返すことが、如何なる危険を孕み得るかという問題に就いて、事務次官の優秀な頭脳は適切な回答を弾き出すことが出来なかったのだろうか?

 無論、性的な欲望と感情は男女を問わず、人間の心を極限まで腐敗させる。権力もまた、人間の精神に異常な歪みを齎すことが珍しくない。それらの剣呑な要素が複合したとき、ハラスメントという事故が起きて、関係者が銘々の苦しみを抱え込むこととなる。ハラスメントが起きるとき、大抵の場合、加害者の見ている世界は異様な歪曲と屈折を帯びている。級友に対するイジメが度を越して自殺に追い込んでしまうとき、幼い子供に対する虐待がエスカレートして殺害に至ってしまうとき、異常に亢進した性慾が強姦や猥褻行為に発展してしまうとき、加害者の見ている世界は、如何なる論理的条件によって支えられているのだろうか?

 ハラスメントは様々な環境や事象の中で生起する現象だが、共通して言えることは、それが何らかの「権威」に基づいているという点である。若しも福田事務次官が被害を受けた女性記者に対して基本的な敬意を有していたら、あれらの下劣な発言を行なうことはなかっただろう。彼は恐らく、女性記者に対して敬意を払う必要を認めていなかった。その根拠となるのが彼の社会的地位であり、その権威である。そこに「事故」の発生する最大の土壌が形作られているのだ。

 権威は意図的に悪用される場合もあれば、無意識に濫用される場合もある。何れにせよ、権威というものは極めて取扱いの困難な劇薬である。何故なら、権威には明瞭な物質的輪郭が備わっていないからだ。具体的な形状を持たず、従って私たちは権威を実体的な方法で規制したり抑圧したりすることが出来ない。権威は種々の曖昧な妄信や偏見の上に形作られるものであり、それは厳密には「権限」と異質な何かである。権限の内訳は法律によって明瞭に規定され得るし、明確な定義を有するからこそ、その限界に就いても広範な合意を確保することが出来る。だが「権威」というのはもっと茫洋とした靄のような何かである。それは自在に伸縮する主観的で恣意的な観念であり、文書によって明瞭に定義され得る性質のものではない。寧ろ、それは行間、或いは余白のようなものである。だからこそ、それは様々な「関係性の事故」の温床となり得るのだ。

 権限は公共的な合意に基づいて決められた約束事の集積であるが、権威は主観的な幻想であり、それは何らかの根拠を有するものの、根拠そのものとは必ずしも合致せず、往々にして観念的な膨張と修正を経由している。従って、様々な恣意的歪曲に馴染み易い。ハラスメントの根本的な悪質さは、権威というものの実体を欠いた曖昧模糊たる性質に由来しているのである。