サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(「金閣寺」再読・紀州神話・作家の実存)

三島由紀夫の「沈める滝」(新潮文庫)を読了したので、今は同じ作者の誉れ高き代表作である「金閣寺」(同上)を再読している。きちんと読み返すのは十年振りではないだろうか。改めて、その緊密で観念的な文章の厳密な彫琢に惚れ惚れしている。

 三島が「金閣寺」において追究し、探索しているのは「美」であり「悪」であり「虚無」である。或いは、滅び去るものを美しいと感じる精神的な様態の特性に就いて語っているとも言い得る。彼は「永遠」の象徴のように屹立する歴史的な建造物である金閣寺を焼き払った僧侶の行動に、或る象徴的な共感を覚えて、筆を執らずにいられなくなったのだろうか。美しいものは、永遠不滅のままでは、その真の美しさを開示しないという三島固有の美学的論理には、死臭が付き纏っている。彼は「永遠」を憎み、いわば「永遠」の化身である「日常生活」を嫌悪している。彼が「永遠」を憎む理由は何なのか。この問題は様々な角度から照明を当てることが可能である。例えば、三島の文学を貫く重要な主題である「擬態=仮構=演技」の観点から眺めるならば、演じることは日常生活とは相容れない。演じることは常に束の間の尽力であり、一方の日常生活は、あらゆる演劇的行為を摩耗させる強靭な影響力を、不可避的に発揮してしまう。日常は私たちの作り上げた入念な仮面と化粧を徐々に剥落させていく。そもそも終わりのない演技とは、論理的に矛盾した概念であろう。演じる者は常に終幕のベルが鳴り響く刻限を待ち受けているのだ。演技の本質とは、限られた時間を生き延びることに他ならない。

*「金閣寺」を読み進める一方で、不図思い立って中上健次の作品、別けても「紀州神話」と特筆大書される「枯木灘」を中心に試論のようなものを書き綴っている。私の理解力が足りない所為だろうか、幾ら読んでもその奥深く複雑な作品の世界を咀嚼し、消化し切ったという実感が湧かない。余りに混濁して、余りに幾重にも枝分かれした物語の「組織」に、読解のメスが競り負けて容易く刃毀れしてしまうかのようだ。

 中上健次が「枯木灘」を中心とする諸作品で追究しているのは「系譜」の問題である。人間は生殖の原理に基づいて複雑な血脈の体系を形作り、一つの巨大な「系譜」を建設する生き物である。中上健次がフォークナーやガルシア=マルケスから多大な影響を受けたという事実は、血の「系譜」が齎す惨劇を淡々と描き出し、その悲惨と栄光を普く文字に焼きつけようとする彼の文学の様態によって傍証されている。

*最近改めて感じるのは、三島由紀夫中上健次といった作家にとって「書くこと」は己の実存的な問題との間に極めて緊密で切り離し難い関係を持った営為として存在し、機能していたのだろうということだ。彼らは単に面白おかしい絵空事を文字に起こして読者の歓心を誘い、そこから経済的な利潤を上げる為に筆を執り続けた訳ではない。彼らの情熱の在処はもっと個人的なものであり、その個人的な追究の徹底性が却って、彼らの作品に異様な普遍的性格を賦与することになったのである。作家にとって「書くこと」が「生きること」と密接に結び付いているのは、職業的な特性として考えれば至極当然の結論だと人は言うかも知れない。だが、一口に作家と言っても、彼らのように切迫した実存的理由に迫られて、己の人生を賭してまで、文学の世界に没入し続けるような人種は稀少である。彼らにとって「書くこと」は「生きること」と不可分であるが、世の中には「書くこと」が「生きること」の一環であり、手段に過ぎないような作家も少なくないだろう。無論「書くこと」と「生きること」の不可避的な融合は、必ずしも幸福と安寧を齎さない。彼らにとっては苦しい宿命であった筈だ。

金閣寺 (新潮文庫)

金閣寺 (新潮文庫)

 
枯木灘 (河出文庫)

枯木灘 (河出文庫)