サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(自由・面従腹背・闘う勇気)

*最近、改めて「自由」というものの価値に就いて考える時間が多い。

 「自由」という言葉を通じて、私が指し示したいと思っている対象は「何でも自分の思い通りにしたい」という風な、幼稚で独善的な欲望ではない。そもそも無数の時間的、空間的、物理的、社会的な制約に搦め捕られている私たちの内なる欲望が、赤ん坊の欲しがるミルクのように、全面的な充足によって報われることなど、ある筈がない。精々、私たちは自分の身の丈に合った行為しか選ぶことが出来ない。その意味で、被投性に占有された私たちの実存は、無数の「本質」によって制限された、不自由極まりない苦役のようなものである。

 だが、そのような意味での「自由」が手に入らないことを悲嘆するのは、賢明な人間の取るべき態度ではない。私が考えている「自由」とは、単なる欲望の放縦な充足への憧れではない。「自由」とは、言い古された表現だが、自分で選択し、決定したことを、その結果に関わらず引き受ける覚悟を持つことである。それは他人の言いなりにならないという決意であり、他人への無際限な隷属を斥ける勇気を握り締めることである。無論、現実の世界では、他人の指示や命令に一切従わずに生きることは不可能であるし、他人の言い分や思惑に逆らうことだけが特権的な価値を備える理由もない。だが、仮に他人の言い分を受け容れ、その思惑に従う場合であっても、己の正直な感情や思考の中身を忘れないことは、大事な心構えである。

 他人の忠告に耳を傾けることは確かに大切な心得であり、そこから汲み出される現実的な利益は決して小さくない。「傾聴」の精神を失って凝り固まった偏狭な人間が、より良い生を享受することは非常に困難である。だが、どんなに有難い他人の忠告であっても、それを無作為に鵜呑みにするのは奴隷の振舞いであろう。重要なのは、これも言い古された表現であるが、自分の頭で考えてみることだ。どんなに愚かな頭脳であっても構わない。知性の優劣は副次的な、些末な問題に過ぎない。自分の頭を濾過せずに他人の意見や教訓をそのまま嚥下して疑問さえ持たないような態度が、最も悪しき慣習なのである。

 私たちの人生は普通、何らかの「幸福」を求める為の旅路のように看做されている。だが、誰にとっても「幸福」が至高の価値であるという信憑は、様々な自己啓発や宗教を蔓延させる温床であろう。誰が「幸福」を生きることの終極的な目的であると、超越的な仕方で定めたのだろうか? 私たちには、幸福になる権利と同等の重さで、不幸になる権利が与えられている。成功する権利と同等の重さで、失敗する権利を認められている。以前、長谷川豊という人物が、糖尿病患者の人権を毀損するような内容の文章を公表して劇しい批判に晒されたことがあった。彼は糖尿病を患うことを当人の自業自得であると糾弾し、そのような人間を救済する為に公費が使われるのは亡国の沙汰だと声高に言い放ったのである。だが、極論を言えば、人間には病に陥る権利がある。それによって生じる苦しみを引き受けることは当然の前提だが、自業自得だから殺してしまえなどという暴論が罷り通ることを許容する訳にはいかない。人間は何者の奴隷でもない、神の奴隷でさえないという認識が、近代の生み出した最も崇高な理念であることを、安易に忘却してはならない。

*他人の顔色を窺うことがあるのは、人間ならば止むを得ない。何らかの社会的な集団に属する限り、他人の心情を忖度するのは自然な行為である。だが、他人の顔色を窺うことに何の疑念も持たず、それを崇高な、忠実な営為であるかのように考えるのは明らかに謬見だ。己に課せられた主体性から逃亡するのは、それが如何に殊勝な態度に映じたとしても、生きることに対する怠慢ではないか。自分の内なる想いをきちんと確かめてみようともせず、半ば自動的に他人の心情に追随して、その恩寵に縋ろうと試みるのは、飼い犬の根性であろう。たとえ愛する人の言葉であっても、己の信念を踏み躙って従おうとするのは、煎じ詰めれば「愛」という理念に対する深刻な侮辱である。「愛」という感情の成立する根本的な条件が「自発性」に存することは言うまでもない。恋人の思惑や機嫌に阿諛するのは「愛」の条件に叛いているのである。言い換えれば、主体性を持たない人間に誰かを愛する力はない。愛していると言い張る資格も、或いは存在しないのかも知れない。他律的な「愛」は往々にして、華美な虚飾に彩られた怠惰な依存心の変種である。依存心と愛情は全く異質な感情であって、両者の不毛な混同が、地上の様々な悲劇の要因であることは論を俟たない。

 他人の顔色を窺うのならば、堂々と窺えばいい。それを忠誠心や道徳心と混ぜ合わせようとする根性が却って卑劣なのだ。面従腹背が必要ならば、それが面従腹背であることを明瞭に自覚した上で、便宜的な手段として行なうべきである。面従腹背を奇怪な正義と接合することが不潔なのだ。そういう人間は、他人の権威を言い訳にして、奴隷の脆弱な立場を口実にして、極めて不誠実な言動に及ぶに決まっている。そういう人間に、私はなりたくない。少なくとも、私は己の魂を他人に売り渡したくない。魂のない人間には、人を愛する力も湧かないものだ。愛する為には、他人への阿諛追従ではなく、寧ろ他人と格闘する挑戦的な気概が必要なのである。