サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「迎合」に就いて

 直ぐに他人の意見に賛同したり、他人の思惑に阿ったりする人間は少なくない。だが、一方で人間には堅牢で頑迷な「自我」というものが備わっていて、それが他人の意見や思惑に対する反抗的な姿勢を育む根拠となる。

 誰でもこの二つの側面は交互に顕現するものであって、完全に何れか片方へ偏するということはないが、それでも大雑把な傾向性のようなものは存在する。特に私が問題視する手合は、他者への「迎合」が殆ど自動的に行われるほどに、当人の内面に血肉化されているタイプの連中である。無論、誰でも他人の思惑や意向に屈することはあるだろう。だが早晩、人生の途上で、他人の言いなりになって生きることに疑問を覚えるのが当然である。多くの人間は、その疑問を思春期の頃に最も明瞭に覚醒させる。

 しかし、然るべき時期に己の本質的な想いと正面から向き合わずに済ませた惰弱な人間は、他者への「迎合」を自らの生きる基準に据えることで、いわば「迎合」を「正義」の位置にまで引き上げる。そのタイプは様々であり、優等生が体制の要求する高度な基準に己の行動や能力を合致させることで成果を上げ、社会的な信用を得てきたという成功体験に染め上げられて、「迎合=正義」の等式を骨身に浸潤させる場合もあれば、特段の能力もない劣等な立場の人間が、生き延びる為に外在的な物差しに屈従することを選び続けた結果、迎合的な振舞いから逃れられなくなる場合もある。

 何れの事例に関しても共通して言えることは、彼らが「他人の意見」と「自分の意見」とを極めて容易く混同してしまう心理的傾向を備えているという点である。私自身も、心の弱さに引き摺られて他人の胸底を忖度してしまうことは多々あるが、迎合的な人間は、最早そのような自覚さえ持たずに、肺が酸素を取り入れるような自然さで、他人の決定した事柄や、他人の示した価値観を嚥下する。彼らは「自分自身の固有の意見」というものの必要性を不当に低く見積もっており、外部に存在する基準や価値観の正当性をナイーブに信仰している。この精神的な構造は、体制の安寧秩序に奉仕するには最高の美徳であるが、一歩間違えれば翼賛的なファシズムの病理を一挙に露呈させる悪質な土壌と化す。

 迎合的な人間にとって、自他の区別というものは極めて曖昧である。彼らは自分の不確かな感覚や認識より、オフィシャルな形でその妥当性が認められた立派な権威的基準を寵愛する。彼らは何よりも失敗や誤答を忌み嫌い、優良な果実だけを収穫する為の最短の経路ばかりを探し回る。或いは、そのような果実への欲望さえ持たずに、自分の主体性を軒並み抛棄して外在的な基準に身を挺することで、自分は悪くないということの根拠を、生涯を賭して作り出し続けようとする。

 迎合的な人間に「良心」を期待するのは無意味であるし、確固たる信念のようなもの、時には反社会的であることによって却って人類の共通の「財産」となるような種類の独創的な信念も、未来永劫備わることがない。彼らは独創性という言葉の滑らかな響きには嘆賞を示すが、自ら独創性という危険な爆薬に手を出そうとは決して考えない。彼らは既に確認され、その安全性と価値が確かめられたものにだけ、安心して欲望を懐くことが出来るのだ。迎合的な人間の頑迷な保守性は、不確かな独創性に固執する人々への冷笑と侮蔑と迫害を金科玉条としている。

 迎合的な人間は、集団としての「調和」を何よりも重んじるし、その為に「体裁」を取り繕うことに関しては驚嘆すべき執念を燃え立たせる。彼らは誰もが共通の基準に基づいて心を一つにしているというファシズム的な理想を愛する。誰もが同一の正義に従えば何も問題は起きないという奇怪な排外主義を信奉して恥じない。彼らには、固有の信念というものがなく、彼らの懐く信念や情熱は常に他人からの借り物であり、つまり彼らは他人の優秀で勤勉な奴隷であるに過ぎない。奴隷であることを恥じない人間が、主体的な信念に基づいて固有の人生を一歩ずつ建設していくことは不可能である。

 迎合的な人間に不足しているのは「自主独立」の精神である。根本的な問題として論難すべきは、彼らが「自他」の境界線に対して懐いている幼稚な恐怖心である。自他の区別を否認し、闇雲に一体感を求めようとする自堕落な集団主義は、自他の区別を理解し、その根源的な孤独を受け容れる覚悟を持たない人々の惨めな狎れ合いによって生じる。迎合的な人間は何よりも調和を重んじることで、調和という名の隠然たる暴力を組立てているのだ。迎合的な人間は、蝗のようなものである。単体で存在しているときは極めて温厚で善良な性格であり、虫一匹殺さないような顔をしているが、一たび群棲相に転じれば、忽ち荒れ狂って猛烈な社会的災禍を惹起する。それは彼らに固有の倫理的信念が欠けており、状況の変化に応じて幾らでも儚く変貌する脆弱な自我しか備わっていないことの反映である。