サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(自己支配・組織・不純な悪人)

*他人を支配しようとする心、言い換えれば「権力」に対する欲望は、様々な仮面と擬装を伴って、人間の社会の到る所に厭らしく浸潤している。権力の機能は、多くの場合、何らかの尤もらしい大義名分を隠れ蓑に纏い、如何にも道徳的な口実を悪用して、あらゆる場面で他人の自由と主体性を制限し、毀損することに己の欲望を燃え立たせているものだ。愛情でさえ、正義でさえ、それを単なる権力の欲望と混同せずに純化して捉えることは極めて困難である。愛情と称して、正義の名を自らに冠して、人は他人を支配することに夢中になる。己の意向に従属させ、己の主権が及び得る範囲を拡張し、己の欲望を他人の犠牲と屈従の上に樹立し、最大限の満足を確保しようと努める。その為には如何なる手段も口実も狡猾に活用され、尤もらしい正論が持ち出され、相手に対する愛情を梃子に遠回しの恫喝が試みられる。

 この世界を様々な権力の絡み合い、鬩ぎ合う泥沼の戦場として捉えることは容易い。誰もが誰かを支配することに欲望を見出す。だが、本来ならば、私たちが権力によって支配すべきは己自身である。他人の尺度に基づいて己を縛り、虐使するのではなく、己自身の掲げた大義や信念や計画に則って、己自身を支配すること、自己の基準によって自己を支配すること、これこそが私たちの最も尊重すべき第一の倫理的公準である。

 自己支配という、或る意味では胡散臭い観念は、科学的な観点から見れば主観的な戯言に過ぎないかも知れないが、実践的な次元において、こうした観念を嗤笑するのは無益である。私たちは他者の意向に唯々諾々と従い、他者の樹立した壮麗な体系に拝跪し、他者の想い描いた理想の世界に信仰を捧げるだけでは、本質的な「生の歓喜」に辿り着くことは出来ない。無論、如何に生きるかという実存的な問い掛けに対する回答は、個人によって千差万別である。誰も、特定の生き方を他者に押し付ける資格など持たない。だが、世の中には「他者に特定の価値観を押し付けること」を純然たる正義や愛情の効果として強固に信じて疑わない人々も少なくない。

 「自己支配」を行なえない人々は、他人の支配に従うことで実存的な安定を確保しようと試みる。自己支配が不可能であることの理由は様々だが、その過半は、自己の主権を他者の何らかの累積した干渉によって蹂躙され、扼殺されていることが原因である。或いは、そのように信じ込まされていることが根本的な要因である。他者に抑圧されている人々が先ず考えるべきは、自己支配、つまり自己は自己に対する主権を掌握しているという自尊心の形態を恢復することである。私たちは極めて多様な方法で、自己に対する主権を手放すように洗脳され、教育されている。公益、道徳、正義、愛情、未来的な理想など、様々な煌びやかな観念に騙されて、私たちは実に容易く自己決定の権利を安値で叩き売ってしまう。

 道徳的な公益の観念を学ぶことが悪い訳ではない。他者に奉仕し、自己を犠牲に供することが罪なのではない。問題なのは、自己支配の結果としてそれらの営為を選択するのではなく、他者の間接的命令の下に、無意識的な不本意さの上で、それらの営為を選択することの不健全な性格である。自らの決意に基づいて正義や愛情に己の魂を捧げるのは健全なことだ。その結果として破滅や衰亡に至ろうとも、それは祝福されるべき敗残である。しかし、他人の思惑に釣り込まれて、己の良心や信念を麻痺させた上で、他者の価値観に身を挺するのは欺瞞的な頽廃を培養するだろう。

 私たちは私たち自身の決断を尊重し、自らの思索と判断を表明することに果敢で挑戦的な姿勢で臨むという方針を維持しなければならない。他者の基準を言い訳にして、己の行動の責任を他者の胸底に委任してはならない。それが如何に殊勝な善良さの象徴のように見えたとしても、他者への依存は単なる欺瞞的な自滅の行為に過ぎない。そうした善良さは無力であり、場合によっては悪質である。

 組織の論理を理由に、頽廃的な決断を下すことは、地上では日常茶飯事であり、そのような意味での権力に抗することの難しさは、誰しも日常的に膚身に感じているだろう。連日報道される政治家や官僚の不祥事の数々に決して同情する訳ではないが、あれほど強力な組織の中で立身出世を遂げるべく苦心惨憺している人々が、他者の権力から自由に振舞うことの難しさは、私のような凡人の想像力の及ぶところではない。問題は、彼らが諸々の悪事や虚言を「組織への忠誠」という自己支配の結果として行なっているのかどうかという点に存する。つまり、組織への忠誠を果たす為に自らの決断で進んで悪事を働いているならば、法的には裁かれようとも、倫理的には一つの正義だと称することも止むを得ない。しかし、単に強大な組織の抑圧的な論理に抗えず、他者の基準を己の基準と掏り替えることに余りにも熟達した結果として、傍目には見苦しく愚かしい言行の数々へ押し流されているのであれば、それはファシズム的な罪人の典型ではないだろうか。悪事を選んだのであれば、その悪事に殉ずるのが筋であり、発覚を懼れて俄かに不明瞭な答弁を弄するのは、自らを他人の奴隷に貶める無様な醜態ではないのか。