サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(視線・他者・内在的対話)

*「見る」という行為、必ずしも完全に主体的であるとは言えないが、往々にして人間の主体性の積極的な発露であると考えられている「見る」という行為には、複雑な政治的含意が備わっている。そこには「権力」というものの痕跡が露骨に刻み込まれている。

 今までの悠一の存在の意識は、隈なく「見られて」いた。彼が自分が存在していると感じることは、畢竟、彼が見られていると感じることなのであった。見られることなしに確実に存在しているという、この新たな存在の意識は若者を酔わせた。つまり彼自身が見ていたのである。

 何という透明な、軽やかな存在の本体! 自分の顔を忘れたナルシスにとっては、その顔が存在しないと考えることさえできた。苦痛のあまり我を忘れた妻の顔が、もし一瞬でも目をみひらいて良人を見上げたら、そこに自分と同じ世界にいる人間の表情を容易に見出したにちがいない。(三島由紀夫「禁色」新潮文庫 P482-P483)

 三島由紀夫が「禁色」という世界の内部に創造した南悠一という青年は、その類稀なる美貌のゆえに、絶えず他者からの眼差しを感じ、それに自らの存在を占有されている。見られるという受動性には、他人の領域に自らの主権を譲渡するという政治的な過程が必ず織り込まれている。

 クローバアの草地は坐るのに佳かった。光りはその柔らかな葉に吸われ、こまかい影も湛えられて、そこら一帯が、地面から軽く漂っているように見えた。坐っている柏木は、歩いているときとちがって、人と変らぬ学生であった。のみならず、彼の蒼ざめた顔には、一種険しい美しさがあった。肉体上の不具者は美貌の女と同じ不敵な美しさを持っている。不具者も、美貌の女も、見られることに疲れて、見られる存在であることに飽き果てて、追いつめられて、存在そのもので見返している。見たほうが勝なのだ。弁当を喰べている柏木は伏目でいたが、私には彼の目が自分のまわりの世界を見尽していることが感じられた。(三島由紀夫金閣寺新潮文庫 P116-P117)

 「見る」という立場に己を擬することは、他者への権力を掌握することと不可分である。視線は権力の飛び交う構図の物理的な反映であり、眼差しには他者の存在を領有する野蛮な暴力性が含まれている。見ることの有無を言わさぬ暴力性、一方的に襲い掛かり、侵犯し、越境する暴力性、こうした性質は如何なる原因に由来するのか?

 「見る」ということ、即ち「認識」という機能そのものに付き纏う不可解な暴力的性格は、それが精神的な次元で、相手の存在を自らの領域に繰り込む手続きを含んでいることに由来するのではないか。人に見られたとき、私の一部は抽象的な次元で切除され、認識する主体の内面へ移管されている。私の一部は、観念的なイメージとして相手の脳裡に保存される。言い換えれば、他者に見られるということは、自分の存在の一部を奪われることに等しい。私の存在は、私自身による一義的な理解の秩序から逸脱し、外部へ流出し、複数の価値観に基づく審判を蒙るように強いられる。私の存在は、私による占有から逃れて、他者との共有財産のように取り扱われる。私の存在の意味を、私自身が独占的に定められない状態へ追い込まれること、私の存在が私の主権から離れること、それが見られるということの孕んでいる暴力的な、つまり強制的な側面の内実である。

 見られた瞬間から、私たちの実存の内実は、自分自身による独占的な判定、つまり認識論的な専制の状態から解き放たれて、複数の他者による審判の法廷へ連れ出される。見られることによって、私たちの素朴な自己同一性の観念は打ち砕かれ、具体的で客観的な輪郭を身に纏い始める。言い換えれば、そのときから私たちの「自己」は分割されて、少なくとも部分的には「他者」として変貌するのである。

 自己の局所的な他者化のプロセス、それが見られることの重要な意味である。眼差しは客体の自足した、安定的な同一性を否認し、客体の存在を多様な解釈の行き交う不透明な領域、つまり社会的な領域へ腕尽くで投げ入れるのである。誰にも見られていないとき、私たちは如何なる他者の解釈にも妨げられずに、一義的で閉鎖的な「自己」の内側へ逼塞していられる。私たちは自己との親密な対話によって満たされていることが出来る。それを単に自閉的な実存の形式として咎めてはならない。常に他者の視線に晒されていることで、私たちの内面は顕著な疲弊を抱え込むものであるからだ。

 結局、中庸が一番であるなどと、毒にも薬にもならない結論を殊更に書き立てようとは思わない。中庸や均斉といった結論ほど、退屈で白々しい議論は他に考えられない。私が言いたいのは、視線というものには凄まじく暴力的な政治性が必ず濃密に織り込まれているということである。眼差しは、相手の自己同一性を破壊し、その単純な組成を錯雑した観念の網目へ変容させる力を持っている。そして自己との対話、つまり思索は、様々な性質を持つ他者の眼差しを仮想的に自らの精神的領野へ取り込むことで、初めて成立する営為である。つまり思考は常に他者の眼差し、他者の精神、他者の実存による介入を想定して行なわれているのだ。思索とは、自己の内側に取り込まれた無数の他者との果てしない対話の累積である。