サラダ坊主日記

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三島由紀夫「金閣寺」再読 1

 三島由紀夫の「金閣寺」(新潮文庫)の再読を終えたので、改めて感じた事柄を徒然に書き留めておく。

①「美」と「人生」の根源的相剋

 「金閣寺」という小説は、三島由紀夫という作家にとって重要な主題が、緊密で堅牢な秩序の中に閉じ込められた稀有の傑作である。あの大部の「禁色」において不明瞭な混乱の内に暗示されていた様々な観念的問題が、この「金閣寺」においては夾雑物を省いた、均斉の取れた文学的秩序として、引き締まった表現を獲得している。

 この作品を一貫して覆い尽くし、その根底に滔々と流れている重要で切実な主題は「美」と「人生」との対立的な関係性である。少なくとも三島的な世界において、両者の間には致命的な懸隔が横たわっていると言える。

 下宿の娘は遠く小さく、塵のように飛び去った。娘が金閣から拒まれた以上、私の人生も拒まれていた。隈なく美に包まれながら、人生へ手を延ばすことがどうしてできよう。美の立場からしても、私に断念を要求する権利があったであろう。一方の手の指で永遠に触れ、一方の手の指で人生に触れることは不可能である。人生に対する行為の意味が、或る瞬間に対して忠実を誓い、その瞬間を立止らせることにあるとすれば、おそらく金閣はこれを知悉していて、わずかのあいだ私の疎外を取消し、金閣自らがそういう瞬間に化身して、私の人生への渇望の虚しさを知らせに来たのだと思われる。人生に於て、永遠に化身した瞬間は、われわれを酔わせるが、それはこのときの金閣のように、瞬間に化身した永遠の姿に比べれば、物の数でもないことを金閣は知悉していた。美の永遠的な存在が、真にわれわれの人生を阻み、生を毒するのはまさにこのときである。生がわれわれに垣間見せる瞬間的な美は、こうした毒の前にはひとたまりもない。それは忽ちにして崩壊し、滅亡し、生そのものをも、滅亡の白茶けた光りの下に露呈してしまうのである。(P160-P161)

 金閣寺は「美の永遠的な存在」として位置付けられ、語られている。最早、実在の金閣寺の物理的な構造や歴史的な背景などの問題は実質的な意味を持っていない。重要なのは、金閣寺が「美の永遠的な存在」の象徴として捉えられ、語り手である「私」の内面に、そのような象徴性を伴って関与しているという点である。従って私たちは具体的な存在としての金閣寺、物理的な実体としての金閣寺を一旦、認識の外部に向かって捨象せねばならないだろう。

 そもそも「美の永遠的な存在」とは何なのか? この抽象的で漠然とした観念は、特定の感覚的な形象を指し示すものではない。美的な存在の具体的な内実を問い質してみたところで、私たちは如何なる堅固な解答にも根拠にも辿り着くことが出来ない。美しさは、或る存在の内部に具体的で明晰な要素として備わっているのではなく、いわば或る認識的な関係の「形態」として、私たちの感覚的な領野に顕現するものである。

 美しさという現象は、物理的な実在の次元に存在するものではなく、飽く迄も私たちの認識の世界にのみ生起する幻影のような「事件」である。美しさとは一つの認識の形態であり、しかもそれは私たちの主観を麻痺させるような野蛮な暴力性を備えている。美しいものは私たちを陶酔させ、茫然自失とさせ、賢しらな理窟を悉く薙ぎ倒し、捻じ伏せてしまう。換言すれば、美しさとは認識の体系を麻痺させる圧倒的な権力の発露なのである。

 美しさの齎す陶酔は、快楽の齎す欲望の充足とは異質な次元に属する現象である。欲望は私たちを具体的な人生へと連れ出し、現実的な行為へと誘うが、美的な存在の振り撒く陶酔の麻薬的な効果は、私たちを如何なる行動にも踏み出させない。寧ろ、美的な陶酔は、あらゆる行動の本質的な無価値を報せる警笛のような威力を備えているのである。美しいものは、私たちの存在と精神を、絶対的な受動性の状態へ強制的に移行させる。換言すれば、美しいものは私たちの実践的な主体性を粉微塵に破壊してしまう、畏怖すべき認識的現象なのだ。

 そして美しさは、時間という観念さえも、私たちの意識から一時的に奪い去ってしまう。美しさに圧倒され、釘を打たれたように射止められたとき、私たちの精神を覆っているのは、永遠という名の無時間的な空白であり、虚無である。永遠とは、無限に長く引き延ばされていく時間に与えられた名称ではなく、時間という認識論的な形式そのものの根源的な停止である。永遠は無時間的な境涯へ人間を拉致し、監禁する。「美の永遠的な存在」という言い方には、美的なものの無時間的な威力に対する言及が含意されているのではないだろうか。

 そのように考えてみたとき、先に引用した「一方の手の指で永遠に触れ、一方の手の指で人生に触れることは不可能である」という文章の意味は、幾らか明瞭な図像を結ぶことになるのではないか。「人生」が「行為」の絶えざる反復と累積であり、そこに不可避的な枠組みとしての「時間」が介在していることは論を俟たない。生きている限り、人間は時間的な観念から逸脱することも、有限性という宿命的な原理から脱却することも出来ない。そうした「人生」の具体的な実相を解除する幻想的な理念として「美」が存在するのならば、そこには必ず無時間的な世界への底知れぬ憧憬が潜在している筈である。つまり、美的存在と永遠性との間には常に、切り離し難い密接な相関性が横たわっているのだ。

 或いは、このように言い換えられるだろうか。美しいものが、その無時間的な威力を発揮して、人間の精神を沈黙する虜囚の如く拉致してしまうとき、人間は有限の世界で生きている日常的な自己を喪失しなければならない。有限の世界に生きている限り、美しいものの無時間的な威力を隅々まで体感することは、原理的に不可能である。つまり「美」と「人生」との相剋は、時間という理念の有無によって生じる認識論的な境界線によって齎されているのだ。

 だが、両者の構造的な異質性が、或る条件下では幻想的な融合を果たし得ることに就いても、作者は筆を惜しんでいない。空襲による金閣寺の焼亡の虞を「私」が自覚した瞬間から、この特異な「蜜月」は「私」に稀有の幸福を体感させるようになる。

 それから終戦までの一年間が、私が金閣と最も親しみ、その安否を気づかい、その美に溺れた時期である。どちらかといえば、金閣を私と同じ高さにまで引下げ、そういう仮定の下に、怖れげもなく金閣を愛することのできた時期である。私はまだ金閣から、悪しき影響、あるいはその毒を受けていなかった。

 この世に私と金閣との共通の危難のあることが私をはげました。美と私とを結ぶ媒立が見つかったのだ。私を拒絶し、私を疎外しているように思われたものとの間に、橋が懸けられたと私は感じた。

 私を焼き亡ぼす火は金閣をも焼き亡ぼすだろうという考えは、私をほとんど酔わせたのである。同じ禍い、同じ不吉な火の運命の下で、金閣と私の住む世界は同一の次元に属することになった。私の脆い醜い肉体と同じく、金閣は硬いながら、燃えやすい炭素の肉体を持っていた。そう思うと、時あって、逃走する賊が高貴な宝石を嚥み込んで隠匿するように、私の肉のなか、私の組織のなかに、金閣を隠し持って逃げのびることもできるような気がした。

 その一年間、私が経も習わず、本も読まず、来る日も来る日も、修身と教練と武道と、工場や強制疎開の手つだいとで、明け暮れていたことを考えてもらいたい。私の夢みがちな性格は助長され、戦争のおかげで、人生は私から遠のいていた。戦争とはわれわれ少年にとって、一個の夢のような実質なき慌しい体験であり、人生の意味から遮断された隔離病室のようなものであった。(P59-P60)

 滅亡の予覚は、金閣=美の有する永遠的な性質、無時間的な性質への決定的な毀損である。「滅びるものの美しさ」というのは、当該の事物が何れ必ず失われてしまう有限の存在であることによって醸成される美しさであり、それは金閣に擬せられた無時間的な美しさとは等号で結ばれるものではない。しかも、この幸福な束の間の「蜜月」は、金閣の絶対的な美しさの開示によって生じたものではない。「私」は飽く迄も「予定された滅亡」という終末論的な観念を信頼することを通じて、本来ならば人間を拒絶する筈の美的存在との「疎隔」を忘れ去っただけに過ぎず、永遠的な性質を失った金閣の美しさは、三島の考える絶対的な「美」とは異質な感覚的現象でしかないのだ。

 私の心象からも、否、現実世界からも超脱して、どんな種類のうつろいやすさからも無縁に、金閣がこれほど堅固な美を示したことはなかった! あらゆる意味を拒絶して、その美がこれほどに輝やいたことはなかった。

 誇張なしに言うが、見ている私の足は慄え、額には冷汗が伝わった。いつぞや、金閣を見て田舎へかえってから、その細部と全体とが、音楽のような照応を以てひびきだしたのに比べると、今、私の聴いているのは、完全な静止、完全な無音であった。そこには流れるもの、うつろうものが何もなかった。金閣は、音楽の怖ろしい休止のように、鳴りひびく沈黙のように、そこに存在し、屹立していたのである。

金閣と私との関係は絶たれたんだ』と私は考えた。『これで私と金閣とが同じ世界に住んでいるという夢想は崩れた。またもとの、もとよりももっと望みのない事態がはじまる。美がそこにおり、私はこちらにいるという事態。この世のつづくかぎり渝らぬ事態……。』

 敗戦は私にとっては、こうした絶望の体験に他ならなかった。今も私の前には、八月十五日の焔のような夏の光りが見える。すべての価値が崩壊したと人は言うが、私の内にはその逆に、永遠が目ざめ、蘇り、その権利を主張した。金閣がそこに未来永劫存在するということを語っている永遠。(P81-P82)

 「私と金閣とが同じ世界に住んでいるという夢想」は、終末論的な観念によって齎された限定的な幻想に過ぎない。絶対的な美しさは、そのような自堕落な狎れ合いを決して許さないのである。美は有限性とは相容れない。美しさは絶対的なものであり、少なくともそれが光り輝く瞬間には、美しさは如何なる限定的な制約からも離脱して、或る不可触の位相に君臨している。美しいものに、人は触れることが出来ない。触れられるものは欲望の対象に過ぎない。そして生々しい欲望の対象として人間に接触された途端に、美しいものはその崇高な絶対性を失って、単なる享楽的な事物として頽落してしまう。美から疎外されるということは、美に憧れる人間にとっては避けることの出来ない原理的な宿命なのである。何故なら美しいものは、有限の生命体である人間を排除するような仕方で現前するように定められているからだ。

 美しいものは、あらゆる解釈を拒絶し、あらゆる理解から免責されて、絶対的で完全な存在として、私たちの精神を凍てつかせる。美しいものは、人間による一切の介入と関与を拒んで、絶対的な境界の彼方で無限に自足している。それを人間の手で侵犯することは出来ない。

 重要なのは、美しいものが欲望の対象ではなく、飽く迄も憧憬の対象であり、絶対に到達することの叶わない彼岸的な存在であるという事実を理解することだ。それは断じて移ろい易い、現象的な地上の世界に存在する具体的な個物ではない。その意味では「私」の眼に映じる「現実の金閣」が「心象の金閣」と同等の美しさを備えないのは当然の事態である。「現実の金閣」は現象的な世界に属しており、それは本質的に有限で不完全な存在である。だが「心象の金閣」は、完全無欠で無時間的な存在である。有限の儚い存在を愛でるように、超越的な美を愛でることは出来ない。私たちは「美」を愛する能力を持たない。「美」は愛されるのではなく、只管に崇拝され、憧憬されるべき絶対的な存在である。焼き亡ぼされる危険性を免じられた金閣が「完全な静止、完全な無音」として屹立するのは、金閣が無時間的な絶対性を恢復したことの顕れである。

 「美」と「人生」との対立的な構図は「理念」と「現実」との対立的な構図に置換することが出来る。換言すれば、三島にとっての「美」は、プラトニズム的な「イデア」として、超越的な領域に君臨しているのである。

 私は金閣がその美をいつわって、何か別のものに化けているのではないかと思った。美が自分を護るために、人の目をたぶらかすということはありうることである。もっと金閣に接近して、私の目に醜く感じられる障害を取除き、一つ一つの細部を点検し、美の核心をこの目で見なければならぬ。私が目に見える美をしか信じなかった以上、この態度は当然である。(P33)

 ここにはプラトニズム的な思考の様式が露骨に迫り出し、刻み込まれている。完全な実在が、様々な障碍に妨げられて不完全な感性的図像として現前しているという思考の形態は、明らかにプラトニズム的な論理に則っている。こうした論理に従う限り、現象的な世界における種々の実在が、本物よりも遥かに色褪せた、劣等な仮象のように感じられるのは至極当然である。「金閣寺」における「私」の深刻な煩悶と迷妄の根底には、こうしたプラトニズム的倒錯が根深い問題として横たわっており、それが「私」を「人生」から繰り返し疎外するのである。

金閣寺 (新潮文庫)

金閣寺 (新潮文庫)