サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(自立・恐懼・隠遁)

*自立するということは何も、あらゆる規範を踏み破って手前勝手な欲望を殊更に強調し、他人の事情を一切斟酌せずに放縦に振舞うということではない。無論、自立するということは、他人の組み立てる種々の思惑に押し流されない強固な判断力や思考力の構築を含むものである。従って、他人との衝突や対立を危惧して、絶えず穏健な調和を維持することに専心する限り、自立ということが困難になるのも客観的な事実である。この辺りの消息に関しては、表面的な事象だけを捉えて、その真意や実相を把握することは容易な作業ではない。

 自立することは確かに他者との格闘や反目を含む。無論、他者の言い分に難癖をつけて逆らうことが自立の目的でないことは言うまでもない。自立することは寧ろ、他者を扶助し、他者と協同的な関係を取り結んでいく為にこそ、必要なプロセスなのだ。しかし、他者との協同的な関係を取り結ぶ為に、他者との反目を辞さないという論理は一見すると分かり難い捩れを孕んでいる。他者との調和を望むならば、無用の争いは避けるべきであり、従って自己の意見を無鉄砲に披瀝するのは賢明でも道徳的でもない、という一般的な論理は、私たちの心身を様々な方向から束縛し、制約している。

 だが、そういう高度な状況判断を下す場合に、それが単なる反目や対立への恐怖心に基づいた措置であるのならば、その人間の本質を自立的であると判定することは出来ない。他人への過剰な恐怖心が、人間の自立を阻害する最大の要因であることは論を俟たない。私たちは他人を懼れる心を棄却する為の努力を積み重ねることで、自立への階梯を登っていくのである。

 他人への恐怖心の根底には、他人の制御し難い自律的行動への不安が横たわっている。つまり、自分の思惑に従って行動することのない他人の本質的な「他者性」への恐怖が、他人の思惑を忖度して怯える従属的な性向の人間を育てるのである。自立の対義語である依存心は常に、他者の不透明な性質に対する妄想的な不安を養分として肥大する。制御し難く、推し量り難い他者の内面と行動を不安視するのは、換言すれば、自己の人生の構造を他者の思惑や意向に委ねていることの反映である。他者に依存する限り、私たちは他者の不透明な性質に対する不安な注視を取り止めることが出来ない。他者への癒着した視線を解除することが出来ない。そして結果的に、他者への抑圧的な支配を講じる欲望を死滅させることが出来なくなる。

 自立とは、相互的な支配からの離脱である。自分が支配されることを拒むのと同じ熱量で、他人に対する支配や干渉を自らに禁じることが、自立という理念の本懐である。つまり、自立とは自分自身の欲望を放縦に暴走させるエゴイズムの異称ではない。他者への反発と抵抗だけを旗印に懐く狷介な無頼漢の異称でもない。厳密に言えば、自立とは「支配=依存」の体系からの果敢な脱却へ向けた戦闘の過程である。

*孤独な生涯に逼塞すること、隠者のように他人の眼を逃れて暮らすこと、それは必ずしも「自立」という理念の本義と直結していない。確かに俗世を離れて隠遁の日々を送る為には、他者に依存しない精神的な強靭さを保つ必要があり、それは「自立」を遂げる上で不可欠の人間的資質である。だが、他人との関係を物理的に切断することで獲得される悲愴な自立は、余りに貧弱であろう。自立は他者の他者性を否定するのではなく、寧ろそれを最大限に尊重し、敬愛することを重要な目的に据えている。しかし隠遁は、他者の他者性に対する病的な嫌悪の昂じた形態であり、従ってそれは本質的に「支配=依存」の体系的な罠の内側に閉じ込められた実存的様式なのである。隠者は他者の他者性を心底憎み、絶望し、完全に見限っている。そこには他者性への敬意の代わりに、抑制された殺意が滾っているのだ。

 他者からの遁走としての隠者的生活には、真の意味における「自立」は存在せず、他者の他者性と正面から向き合う勇気と熱情を欠いているという意味で、依存的な性格の範疇を少しも脱していない。他者性との対峙は、他者と接しながら、支配にも依存にも失墜することのない勇気と自制心を通じて漸く成し遂げられる、困難な倫理的課題である。他者の領域を尊重する勇気を持たない限り、他者からの自立を果たすことは出来ず、従って他者を愛することも出来ない。換言すれば、他者を愛することは常に「支配=依存」の権力的な図式に対する抵抗を意味しているのである。