サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

三島由紀夫「金閣寺」再読 2

 引き続き、三島由紀夫の『金閣寺』(新潮文庫)を再読した感想を認めておく。

プラトニズムの齎す倫理的害毒

 「私」にとって「美」は、現象的な世界の裏側に潜んでいる、秘められた存在である。しかし、それは単純に「美」が彼岸的で超越的な観念であることを意味していない。例えば三島は「禁色」において、作家である檜俊輔に次のような美学的論理を語らせている。

「……そうして、美とは、いいかね、美とは到達できない此岸なのだ。そうではないか? 宗教はいつも彼岸を、来世を距離の彼方に置く。しかし距離とは、人間的概念では、畢竟するに、到達の可能性なのだ。科学と宗教とは距離の差にすぎない。六十八万光年の彼方にある大星雲は、やはり、到達の可能性なのだよ。宗教は到達の幻影だし、科学は到達の技術だ。

 美は、これに反して、いつも此岸にある。この世にあり、現前しており、確乎として手に触れることができる。われわれの官能が、それを味わいうるということが、美の前提条件だ。官能はかくて重要だ。それは美をたしかめる。しかし美に到達することは決して出来ない。なぜなら官能による感受が何よりも先にそれへの到達を遮げるから。希臘人が彫刻でもって美を表現したのは、賢明な方法だった。私は小説家だ。近代の発明したもろもろのがらくたのうち、がらくたの最たるものを職業にした男だよ。美を表現するにはもっとも拙劣で低級な職業だとは思わないかね。

 此岸にあって到達すべからざるもの。こう言えば、君にもよく納得がゆくだろう。美とは人間における自然、人間的条件の下に置かれた自然なんだ。人間の中にあって最も深く人間を規制し、人間に反抗するものが美なのだ。精神は、この美のおかげで、片時も安眠できない。……」(『禁色』新潮文庫 pp.679-680)

 「美」は確実に私たちの住まう現象的な世界の内部に存在しているが、私たちは「官能」の機能的な限界を突破して「美」そのものの実体に到達する力を有していない。この考え方は明白にプラトニズム的な「真理」の構図に即している。私たちは美的な存在を、自らの官能を媒介として感受する以外に認識する方法を持たないが、認識は決して美的な存在そのものへの物理的な到達を意味しない。私たちは「美」を感性的な機能に基づいて把握することは出来るが、それは飽く迄も銘々の多様な感受性を通じて個別に仮構された現象であって、決して「美」そのものの普遍的な実相に逢着することは出来ないのである。それが「美」という観念に附随する厄介な論理的構造である。

 だが、こうした考え方は「美」に固有の問題であると言い切れるだろうか? 如何なる対象を俎上に載せようとも、認識の構造的な限界という主題は常に、私たちの行く手に立ち開かる険阻な断崖である。重要なのは、語り手である「私」の思考の様態が、感性的な「美」の背後に絶対的な「美」の存在を必ず措定しようと努める点に存している。

 私はいろいろに角度を変え、あるいは首を傾けて眺めた。何の感動も起らなかった。それは古い黒ずんだ小っぽけな三階建にすぎなかった。頂きの鳳凰も、鴉がとまっているようにしか見えなかった。美しいどころか、不調和な落着かない感じをさえ受けた。美というものは、こんなに美しくないものだろうか、と私は考えた。(『金閣寺新潮文庫 pp.32-33)

 「美というものは、こんなに美しくないものだろうか、と私は考えた」という言い方には、倒錯的な印象が付き纏う。彼の夢見がちな生い立ちが、過度に美化された壮麗な「心象の金閣」を育んだという説明は、こうした倒錯的認識の成立という現実に対して充分に匹敵しているようには思われない。これは飽く迄も物語を成立させる為の便宜的な説明であり、何故そのような思考の様態が「私」の内部に深く根付いているのかという問題は、暗闇の奥底に繋留されたままなのである。

 私の現実生活における行為は、人とはちがって、いつも想像の忠実な模倣に終る傾きがある。想像というのは適当ではない。むしろ私の源の記憶と云いかえるべきだ。人生でいずれ私が味わうことになるあらゆる体験は、もっとも輝やかしい形で、あらかじめ体験されているという感じを、私は拭うことができない。こうした肉の行為にしても、私は思い出せぬ時と場所で、(多分有為子と)、もっと烈しい、もっと身のしびれる官能の悦びをすでに味わっているような気がする。それがあらゆる快さの泉をなしていて、現実の快さは、そこから一掬の水を頒けてもらうにすぎないのである。

 たしかに遠い過去に、私はどこかで、比びない壮麗な夕焼けを見てしまったような気がする。その後に見る夕焼けが、多かれ少なかれ色褪せて見えるのは私の罪だろうか?(『金閣寺新潮文庫 p.290)

 「私」にとって生きることは、既に過ぎ去った完璧な体験の不完全な「想起」に類似している。既に存在しているものを想起するという論理に、プラトニズム的な思惟の形式の反響を聴き取るのは、牽強付会に過ぎるだろうか? 完璧で非の打ち所のない審美的法悦が予め存在し、現実の経験はその不完全な反映に過ぎないという思考の回路は、明瞭にプラトニズム的であると言えないだろうか? このような観念的思想の形態に脳髄を占領されたとき、その人間の眼に映る世界は常に、完璧な理念の不完全な模造品に過ぎない。どんなに美しい夕焼けも、完璧な理念=イデアとして先行して存在する「比びない壮麗な夕焼け」の色褪せた模写でしかない。或る先験的な理念が予め存在し、私たちの享受する感性的な現実は総て、その不完全な流出に過ぎないというプラトニックな思考の形態、この観念的な倒錯(無論、倒錯と決め付けるべきかどうかは一概に断定し難い)が、少なくとも「金閣寺」という作品においては、語り手である「私」を具体的で実践的な「人生」の現場から遠ざけ、遮断してしまうのである。

 端的に言って「金閣寺」という作品は、語り手に幼時から根深く浸透したプラトニックな思惟の形態を、語り手自身が如何に打破しようと試みたか、その観念的で抽象的な格闘の記録である。そしてプラトニックな思惟の形態を支える至高の理念、或いは象徴として「金閣」は存在し、「私」の内面的な世界に君臨している。つまり「金閣」を焼き払うという決断は、「私」を「人生」から遮断し、隔離するプラトニックな観念の体系を焼き払うという決断と同義なのである。

 ここからは金閣の形は見えない。渦巻いている煙と、天に冲している火が見えるだけである。木の間をおびただしい火の粉が飛び、金閣の空は金砂子を撒いたようである。

 私は膝を組んで永いことそれを眺めた。

 気がつくと、体のいたるところに火ぶくれや擦り傷があって血が流れていた。手の指にも、さっき戸を叩いたときの怪我とみえて血が滲んでいた。私は遁れた獣のようにその傷口を舐めた。

 ポケットをさぐると、小刀と手巾に包んだカルモチンの瓶とが出て来た。それを谷底めがけて投げ捨てた。

 別のポケットの煙草が手に触れた。私は煙草を喫んだ。一ㇳ仕事を終えて一服している人がよくそう思うように、生きようと私は思った。(『金閣寺新潮文庫 p.330)

 「金閣寺」という作品は「私」が如何にしてプラトニックな観念の虜囚となり、如何にしてその観念の魔力から脱して「人生」の入口に立ち得たか、その詳細な過程を緊密な文章で描き出している。「私」は常に「現実」よりも「心象」を優先することに慣れ親しんでおり、その遠因として「吃音」が挙げられる。

 吃りは、いうまでもなく、私と外界とのあいだに一つの障碍を置いた。最初の音がうまく出ない。その最初の音が、私の内界と外界との間の扉の鍵のようなものであるのに、鍵がうまくあいたためしがない。一般の人は、自由に言葉をあやつることによって、内界と外界との間の戸をあけっぱなしにして、風とおしをよくしておくことができるのに、私にはそれがどうしてもできない。鍵が錆びついてしまっているのである。

 吃りが、最初の音を発するために焦りにあせっているあいだ、彼は内界の濃密な黐から身を引き離そうとじたばたしている小鳥にも似ている。やっと身を引き離したときには、もう遅い。なるほど外界の現実は、私がじたばたしているあいだ、手を休めて待っていてくれるように思われる場合もある。しかし待っていてくれる現実はもう新鮮な現実ではない。私が手間をかけてやっと外界に達してみても、いつもそこには、瞬間に変色し、ずれてしまった、……そうしてそれだけが私にふさわしく思われる、鮮度の落ちた現実、半ば腐臭を放つ現実が、横たわっているばかりであった。(『金閣寺新潮文庫 pp.7-8)

 こうした「内界と外界との間の扉」の機能不全が、「私」の内部に牢固たるプラトニズムの壮麗な伽藍を築き上げたのかも知れない。つまり「新鮮な現実」に対する複雑な憧憬の感情が、如何なる現実も「完璧な現実」の劣化した形態に過ぎないというプラトニックな信仰を育んだのではないかと推察されるのである。理念としての完璧な現実が予め先験的に存在し、感性的な現実はその不完全な反映であるという考え方の根底には、自分が常に外界の感性的な現実から隔てられているという認識が介在している。

 こうした信仰が、結果として「私」を外界の感性的な現実への介入から隔てる効果を発揮する。同時に「私」は理念としての完璧な現実からも疎外されている。この二重の疎外が「私」を身動きの取れない抑圧的な状態へ幽閉するのである。理念としての絶対的で超越的な「美」に到達することは、「私」が感性的で現象的な世界の一部として存在し、その世界に内属している限り不可能である。にも拘らず「私」は理念としての「美」の超越的な性格を信じるがゆえに、己の所属する感性的で現象的な世界をそのまま受容することが出来ない。受容しようと試みる度に出現する「金閣」の幻影が、「私」の具体的な人生への参与を妨害するのである。

 私はむしろ目の前の娘を、欲望の対象と考えることから遁れようとしていた。これを人生と考えるべきなのだ。前進し獲得するための一つの関門と考えるべきなのだ。今の機を逸したら、永遠に人生は私を訪れぬだろう。そう考えた私の心はやりには、吃りに阻まれて言葉が口を出かねるときの、百千の屈辱の思い出が懸っていた。私は決然と口を切り、吃りながらも何事かを言い、生をわがものにするべきであった。柏木のあの酷薄な促し、「吃れ! 吃れ!」というあの無遠慮な叫びは、私の耳に蘇って、私を鼓舞した。……私はようやく手を女の裾のほうへ辷らせた。

 

 そのとき金閣が現われたのである。

 威厳にみちた、憂鬱な繊細な建築。剝げた金箔をそこかしこに残した豪奢の亡骸のような建築。近いと思えば遠く、親しくもあり隔たってもいる不可解な距離に、いつも澄明に浮んでいるあの金閣が現われたのである。(『金閣寺新潮文庫 pp.159-160)

 こうした内面的経験を一概に「美の永遠的な存在」への到達であると認定することが適切かどうかは分からない。ただ、少なくとも「私」が「隈なく美に包まれ」ていると感じていることは確かな事実である。その瞬間に「下宿の娘」の存在は「塵のように」後景に退き、「私」は「美の永遠的な存在」に抱擁されながら「人生への渇望の虚しさ」を思い知り、性的不能と「行為」への怯懦に囚われてしまう。「美の永遠的な存在が、真にわれわれの人生を阻み、生を毒するのはまさにこのときである。生がわれわれに垣間見せる瞬間的な美は、こうした毒の前にはひとたまりもない」(p.161)という文章は、こうした消息を明瞭な措辞で説明している。「美の永遠的な存在」に魅了された人間にとって「生がわれわれに垣間見せる瞬間的な美」は、換言すれば「美の永遠的な存在」の不完全な模造品としての価値しか持たない。「美」の理念的な永遠性に比べれば、有限の繊弱な「美」の魅力は単なる破片でしかない。そのように考えるとき、人間の内面を領するのはニヒリズムであり、現象的な世界の有限性に絶望する「断見」である。生きることは無意味であり、滅ぶものは無価値であるというペシミスティックな信憑が「私」から行為への勇気を奪い去り、永遠的な理念としての「金閣」への拝跪と隷属を命じるのだ。

 こうして「行為」と「認識」の対立という重要な主題が徐に、その明瞭な輪郭を示し始める。「美の永遠的な存在」に包摂されるという経験は、純然たる「認識」の範疇に属している。それは断じて「行為」ではなく、寧ろあらゆる種類の「行為」からの完全な離脱を意味している。

 「美の永遠的な存在」への劇しい憧憬を胸底に燃え盛らせて金閣寺の徒弟となった「私」は徐々に、この重要な主題の齎す軋轢に苦しむようになっていく。

 このころから微妙な変化が、私の金閣に対する感情に生じていたものと思われる。憎しみというのではないが、私の内に徐々に芽生えつつあるものと、金閣とが、決して相容れない事態がいつか来るにちがいないという予感があった。亀山公園のあのときから、この感情は明白になっていたが、私はそれに名をつけることを怖れた。(『金閣寺新潮文庫 p.167)

 この時点では未だ控えめな「予感」に留まっていた「認識」と「行為」との根源的な対立は、やがて明瞭な敵愾心へと高まっていく。

「美は……」と言いさすなり、私は激しく吃った。埒もない考えではあるが、そのとき、私の吃りは私の美の観念から生じたものではないかという疑いが脳裡をよぎった。「美は……美的なものはもう僕にとっては怨敵なんだ」

「美が怨敵だと?」――柏木は大仰に目をみひらいた。彼の上気した顔には常ながらの哲学的爽快さが蘇っていた。「何という変りようだ、君の口からそれを聴くとは。俺も自分の認識のレンズの度を、合わせ直さなくちゃいかんぞ」(『金閣寺新潮文庫 p.275)

 「美」を「怨敵」と看做す「私」の決定的な転向は、プラトニズムの齎す夥しい毒素への抵抗の必要を「私」が明確に感受したことの結論である。「世界を変貌させるのは決して認識なんかじゃない」(p.273)という「私」の苛烈な信仰告白は、絶対的な認識としての「美」に対する挑戦状であり、「人生」への参入の決意表明なのだ。彼は「美の永遠的な存在」を焼き払うことで、つまり「永遠的な存在」を有限性の世界へ腕尽くで移行させることによって、「人生」を「虚無」に作り変えるプラトニズムの魔術的な効果に叛逆するのである。

 おしなべて生あるものは、金閣のように厳密な一回性を持っていなかった。人間は自然のもろもろの属性の一部を受けもち、かけがえのきく方法でそれを伝播し、繁殖するにすぎなかった。殺人が対象の一回性を滅ぼすためならば、殺人とは永遠の誤算である。私はそう考えた。そのようにして金閣と人間存在とはますます明確な対比を示し、一方では人間の滅びやすい姿から、却って永生の幻がうかび、金閣の不壊の美しさから、却って滅びの可能性が漂ってきた。人間のようにモータルなものは根絶することができないのだ。そして金閣のように不滅なものは消滅させることができるのだ。どうして人はそこに気がつかぬのだろう。私の独創性は疑うべくもなかった。(『金閣寺新潮文庫 p.246)

 この華麗で逆説的な修辞学は、「美の永遠的な存在」の根源的な否定という重大な挑戦の為に捧げられた祝詞のようなものである。

金閣寺 (新潮文庫)

金閣寺 (新潮文庫)