サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(依存・小利口・堕落・暗部)

*他人に依存するのではなく、自分の外側に接続されている諸々の外在的な権威に頼るのでもなく、自分自身の力と判断で、責任を引き受けて生きること、他人の存在を言い訳に用いて自分の信念や欲望を圧殺しないこと、不満の原因を他人に求めないこと、言い換えれば、外在的な要素に自分の人生の根拠を預けないこと、これが最近、私の考えている「倫理」の漠然たる素描である。因みに附言しておくと、私の考える「倫理」とは「道徳」ではない。道徳的な善悪の基準とは直接的な関係を持たない「規範」を指し示す為に「倫理」という言葉を使っている。

 煎じ詰めれば「自立=自律」という観念に行き着く訳だが、この誰でも知っている「自立」という言葉の意味を骨身に沁みるほどに生々しく理解し、自らの人生において具現化している人は少数派ではないかと思う。誰でも死ぬときは一人であり、たとえ血を分け合った兄弟であっても所詮は異質な他人でしかない世の中で、誰もが己の本質的な孤独と寂寥から顔を背けるように、何らかの事物に依存したり、他人に縋ったりして生きている。

 無論、人間は群れを作る生き物であり、その意味では「孤独」という観念が明瞭な主題として人々の脳裡に浮上し、詳しく検討されるようになったのは、それほど古い話ではないかも知れない。だが、厳密に言えば「孤独」は群衆の渦中においても私たちの魂を容易に貫き、揺さ振るものである。孤独は人間の実存を規定する根源的な条件であり、そこから眼を背けるのは個人の自由だが、幾ら背けたところで、根源的な条件が緩和される見込みは皆無である。たとえ全体主義的な熱狂の氾濫に身を投じたとしても、人間の本質的な個体性は消滅しない。自他の境界線が溶解するような感覚を懐くことは可能だが、それは束の間の幻影でしかない。結局、如何に深く共感し合った積りでいても、自他の異質性が完全に除去されることは有り得ない夢想なのである。

 だが、そうした厳粛な真理と正面から向き合うことに堪え難い苦痛を覚えたとき、人は何らかの「依存」に走る。自分の足だけで立ち続けることに深刻な不安を覚え、果てしなく続く寂寥の予感に絶望し、人や物に縋りついて支えてもらおうとするのだ。依存の対象は実に様々であり、従ってその弊害も多岐に渉るが、その病理学的な構造は概ね共通していると言えるだろう。

*何らかの人や物に依存し、それによって相互に不自由な状況へ陥り、尚且つその閉鎖的で歪んだ環境から脱却出来なくなること、そうしたアディクション(addiction)の病理は、社会の随所に様々な濃淡で刻み込まれ、日夜活動を展開している。人間は実に容易く他人や事物に依存し、しかも自分が依存しているという事実を極めて過少に評価する。つまり、その弊害を非常に安く見積もってしまう。涼しい顔で、自分は立派に自分の力で生き抜いている、殊更に誰かの世話になっている積りもないと息巻いて、単純に素朴に、そうした信憑を疑いもしないのである。だが沈着に考えてみれば、自分の心が常に何らかの外在的な対象に縋って、支えられていることに気付く筈だ。

 本当に誰からも自立して、依存せずに生きているのならば、他人を妬んだり恨んだり失望したり期待したりする必要はない。だが、往々にして人間は何時でも羨望や怨恨や過大な期待に囚われて、思い通りに運ばない現実の責任を他人や物に押し付けている。こういう不毛な循環に縛られて身動きが取れなくなっていることにも明瞭な自覚を持たずに、悶々と苦しんでいるのだ。

*結局、小利口ということなのだろうか。色々な事情を勘案し、合理的な方法を考え、揉め事が起こらないように巧く立ち回り、そうやって成る可く無難に平穏に生きていこうと試みる姿勢が、諸悪の根源なのだろうか。綺麗事ばかり並べ立てて、一体それで何になると言うのか。凡庸な幸福に憧れて、人から叱られたり嗤われたりすることに怯えて、窮屈な論理で自らを拘束して、世間の良識とやらに跪いてみせる。尤もらしい言葉、尤もらしい正義、尤もらしい選択肢。自分自身の心にさえ嘘を吐き、自分を正当化する為の屁理屈を組み立てることにばかり血道を上げる。そういう生き方に深甚な疲弊を感じる夜もある。

 だが、依存はいけないと思いながらも、本当に誰にも何にも依存せずに生きることなど可能なのだろうか、と思わないこともない。結局は骨絡みの甘えが消せずに、知らぬ間にずるずると人や物に依存して、私は生きているではないか。正義漢の仮面を被って時には偉そうに一丁前の正論を吐いてみせることもある私だが、果たしてそのような社会的正義に殉ずる覚悟など持ち合わせているかと問われれば、絶句するより仕方ない。

 自分を正義漢だと思い込むのは愚かしいことである。驕慢で無恥な所業である。そういったことを、少し前に考えた。私は二十歳で子供が出来たので止むを得ず勤人になり、社会の片隅で貧しい所帯を営み始めた。世間知らずで我儘で気の短い私も、我慢して仕事を続けるうちに少しずつ常識を弁えるようになり、少しずつ社会的な信頼を勝ち得て、余り世間から邪険にされぬ立場になった。そうなると、固より自分に甘い性格である私は、自分を真っ当で良識的な人間であるかのように信じ始めた。尤もらしい正論の似合う男なのだと、自分で自分を定義し始めた。だが、それは錯覚ではないかと、この頃思う。私は生来、短気で我儘で好き嫌いが劇しくて、他人に頭を下げることが好きではない。他人の意見に唯々諾々と従い、他人の拵えた理念や信条を後生大事に受け取って自分の胸許に飾るような真似が嫌いである。けれども、余計な揉め事を嫌って日頃は大人しく綺麗事を並べ立て、愛想笑いを浮かべている。そうやって働いていれば、もっと出世していけるだろうと漠然と考えていたが、そもそも自分は出世したいと思っているのだろうかと、もう一人の沈着な自分が囁いてくる。お前は本当に、そんな真っ当な堅気の性格だったか? 若しもそうなら、大学を一年で辞めたり、定職も持たぬ分際で子持ちの年上女性を妊娠させたり、臨月を迎えた妻の誕生日に仕事を辞めたりするだろうか? それは知らぬ間に十年以上も昔の遠い記憶になりつつある。掠れた記憶が、危機感を薄れさせ、都合の良い謬見を蔓延させるのだろうか?

 別に社会の正道から殊更に離れようとは思わないが、堅苦しい規律を後生大事に戴いて生きる積りにもなれない。他人の提示する理念や信条に興味を持たない訳ではないが、所詮は他人事だと思ってしまう。結局、重要なのは、己の内なる醜悪な暗部を常に覗いてみることではなかろうか? そうすれば、如何なる綺麗事も正論も忽ち塩を浴びた蛞蝓のように崩壊してしまうだろう。下らぬ欺瞞で己や他人を欺くこともなくなるだろう。自立することが大切だと、依存は不幸しか生まないと、尤もらしく語ってみせても、結局は己の欲望に呑み込まれて傍若無人に振舞う私がいる。その実相を見据えずにきらきらと美辞麗句を数珠繋ぎにして、それで本当の幸福に達することなど、出来る筈もないのだ。