サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「決断」に就いて 2

 丁度一年前に「『決断』に就いて」という表題の記事を書いていた。はてなブログから、定期的に送られてくる振り返りのメールを開いて、偶然に知ったのである。それに触発されて再び「決断」という観念、或いは行為を巡って、文章を認めたいと思った。

 人間は日々、何らかの決断を下しながら生きている。厳密に言えば、それは個別的な「判断」と称するべきかも知れない。一年前の記事では、私は次のように書いていた。

 否応なしに、私たちは常に、刻一刻と「決断」を迫られている存在である。何も選ばないという選択さえも、否応なしに一つの「決断」として何らかの具体的な現実を喚起してしまう。

 だが現在の私は、この文言に若干の訂正を加えたいと考えている。つまり、私は日々の営みの中で半ば自動的に行なわれている反射的で慣習的な「判断」とは異質な次元に属するものとしての「決断」に就いて、検討を試みているのだ。

 「判断」は、予め出来上がった大局的な枠組みの中で、いわば過去の延長線上で為される決定である。人間は誰しも記憶の中に様々な試行錯誤の経験や、他人から教わった知識や事柄を蓄えている。「判断」を下すのに要する時間の多寡は状況によって多少は増減するが、何れにせよ、それが既存の価値観や世界観の内包する原理に基づいて行なわれるプロセスである点に変わりはない。

 だが「決断」は、そのような「判断」を可能にする従来の体系や秩序そのものを瓦解させ、転倒させ、更新するような決定である。つまり、それは既存の価値観に基づかないどころか、その内在的な矛盾や亀裂を根拠として形成される重要な分水嶺なのである。「決断」の前後では、日々の「判断」の性質や方向性さえも変容を遂げてしまう。「判断」を支える根底的な基盤が書き換えられてしまうのだから、そのような変貌が生じるのは当然である。

 そう考えると「決断」には畏怖すべき重要な役割、巨大な意義が課せられていると言える。「決断」に踏み切るとき、私たちは今までの自分自身の秩序を抛棄しなければならない。古びた自分を否定し、新しい世界へ通じる扉を押し開ける為には、従来の「判断」の蓄積に対する依存を断ち切らねばならない。この重要な決定が多大な心理的混乱を招来するのは自然な現象である。それは今までの自分が浸っていた安楽で馴染み深い環境や条件を棄却することと同義であるからだ。過去の栄光や幸福に対する訣別の表明であるからだ。過去の自分が依存し、立脚し、執着し、慈しんでいた世界からの出発を意味するからだ。

 「決断」は孤独なものである。それは如何なる約束や、確実な希望や、外在的な庇護とも無縁であり、あらゆる事前の保障から見放されている。「決断」は、半ば習慣化された自動的な「判断」の安定した精確さに頼ることが出来ない。過去の尺度は通用せず、過去の反復によって乗り超えることも出来ない世界へ移行することが「決断」の本義である。「決断」は孤独なものであり、他人の基準に縋って決定することも引き受けることも出来ない。「判断」には根拠がある。累積した過去という材料が与えられている。しかし「決断」には根拠がない。可能性に対する信頼だけが、つまり未来に対する意志だけが「決断」という重要な営為を支えているのだ。

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