サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「不倫」に就いて

 漸く精神的な整理がついてきた気がするので、恥を忍んで、考えたことを書き遺しておきたい。人目に晒すような話ではないが、これを書くことは、私が建設的な未来へ向かって生きていく上で本当に重要なことなのだ。

 私は以前、短い期間であったが不倫をしていた。一回りも歳の離れた若い女性と、性的な関係を持った。しかも当時の私は、度し難いほど愚かで軽率で、彼女との関係を単なる遊戯や道楽の範疇に留めておくことが出来なかった。刻一刻と、私は彼女を切実に愛するようになった。最初はせめて性交渉だけは控えようと思っていた。けれども、感情の高鳴りを抑制することが出来なかった。私の理性は、情熱の前に無力であった。

 妻に不倫が露顕して修羅場が持ち上がり、私は事態の経緯を洗い浚い白状した。私は散々悩み抜いた末に、不倫の関係を清算することに決めた。清算した後も暫くは、私は苦悩を捨てられなかった。哀しみを振り払うことが出来なかった。未練が熾火のように燻っていた。

 不倫という関係であっても、私は彼女に対する愛情を本物だと信じていた。妻子を持っていても、人を好きになる感情自体は抑え難いものだと、自分自身を正当化していた。けれども、今では思う。その愛情が誠実であり、真実であったとしても、それは不倫を正当化する根拠にはならない。相手に対して誠実な愛情を懐き、自分の総てを捧げたいと願うのならば、不倫という構図の中で、性的な関係を持つべきではない。どんなに言い訳を塗り重ねても、不倫は不実であり、欺瞞であり、卑怯な行為である。それは配偶者に対する不実であると同時に、不倫の相手に対する不実でもある。全力で愛していると言うのならば、全力を捧げられる状況を構築した上で、それを告げるべきである。つまり、離婚した上で改めて愛情を伝えるべきである。離婚する決断をせずに、世間の眼を盗んで秘密裡に男女の関係を持つのは、結局のところ、現実からの逃避に過ぎないのだ。二つの互いに矛盾する正しさの間で、勇気を以て一個の選択に総てを投じようとする果断を嫌がり、決定的な破局を迎えるまでの未決定の期間の中で、それらを矛盾したまま、共存させようとする怯懦は、どれだけ美名で飾り立てようと、或いは愛情の真実さを楯に糊塗しようとも、逃れ難い倫理的な頽廃として胸底に疼き続ける。

 不倫という関係性は、あらゆる誠実な愛情、真摯な愛情を、自動的に頽廃させるような危険な毒素を備えている。不倫の渦中にあるとき、当事者の男女は、この愛情が掛け値なしの本物であり、決して刹那的な快楽を追求するものではないと信じることによって、つまり自分たちの愛情は正真正銘「誠実なもの」であると相互に確認することによって、不倫という悪徳を美化しようと企図する。しかし、どんなに誠実で真摯な愛情であっても、それが不倫である限り、その愛情に発展的な未来はない。この「未来の欠如」という根本的な条件が、誠実で真摯な愛情に対しても、救い難い頽廃と堕落の成分を混入させるのである。

 完全に割り切って、つまり如何なる未来も欲する積りはないと割り切っていられるのならば、不倫は暫時の火遊びに終わる。酒を呑んだり、博打を打ったり、夜通し踊り続けるのと同じような「道楽」の範疇に留まる。そのとき不倫は、限りなく「セックス」の同義語に近付くだろう。男女の関係という肉体的な官能性だけを味わう為に、それを純粋に抽出して愉しむことだけが目的ならば、寧ろ不倫という関係性は都合がいい。そこには如何なる発展的未来も存在せず、従って性的な関係に諸々の厄介な倫理的観念(愛情や貞節や誠意や配慮や共感や理解など)が頑固な油汚れのように付き纏う心配もない。そのとき「セックス」は一切の政治的影響を排除された純然たる「スポーツ」に近付く。「スポーツ」そのものには善悪など求めようがない。同じく「セックス」そのものにも善悪という道徳的な尺度を宛がうことは無益である。しかし現実の社会で「スポーツ」が様々な政治的思惑との野合を避けられぬように、純然たる「セックス」も家族や共同体の道徳的規範から完全に自由であることは難しい。

 その意味では、完全なる遊戯として不倫に走っている人々は未だしも賢明であり、物事の関係性や構造を精確に捉えているのかも知れない。彼らは極端に言えば「セックス」という享楽を経験する為に貞操義務を裏切るのであって、彼らの愛情そのものは飽く迄も配偶者と家族の許にある。だが、そのように「セックス」と「愛情」、つまり肉体的なものと精神的なものとを便宜的に線引きし、使い分けられない人間にとって、不倫という関係性は最悪の悲劇である。つまり「愛情」の関与しないセックスは有り得ないと信じている人間が不倫の泥濘に嵌まり込んだとき、それは取り返しのつかない悲惨な事故へと高確率で発展するのだ。

 私自身は「セックス」というものに純粋な肉体的関心だけを見出す性格ではない。「スポーツ」に熱中する人々のように「セックス」に熱中する人間ではない。無論、私はそういう人々を断じて批難している訳ではない。そういう人々が存在するということは充分に理解出来るし、それを道徳的に批判する必要を聊かも認めない。ただ、私はそのように「セックス」を純然たる肉体的問題に還元することが出来ない。換言すれば、私は「セックス」を目的として捉えることが出来ず、飽く迄も「愛情」に通じる一個の手段として位置付けて生きているのだ。だから極端に言えば、相互の関係性の中で「愛情」を明瞭に感じることが出来ていれば、たとえ「セックス」が出来なくても別に困らない。私にとって「セックス」はゴールではなく、いわば一つのスタートに過ぎない。

 最初の結婚生活の末期、私に対する愛情を失った前妻は、私との性交渉を拒絶した。風俗へ行ってもらっても構わないので、私には指一本触れないでくれと明言された。その当時、私は死ぬほど苦しんだ。厳密には、私はセックスに飢えていたのではない。私は何より、前妻からの愛情の欠如に苦しんでいた。誰もがセックスという行為を好む訳ではない。道徳的、或いは生理的な嫌悪から、セックスという行為を単なる子作りの手段以上には考えない人々も決して少なくない。だから前妻がセックスを好まないのならば、それを無理強いしようとも思わなかった。問題は、彼女がセックスの拒否を通じて、私という人間を拒否していることだった。セックスの有無よりも、愛情の有無の方が遥かに私にとっては切実な問題であった。愛情さえあれば、別にセックスは不要であった。

 民法が性交渉を「不貞行為」の本質的な要件に定めているのは、セックスと愛情とのアマルガムを社会的な通念として認識していることの反映であろう。この通念は、セックスを純然たるスポーツとして捉えている人々には巧く適合しない。だが、私の場合に関して言えば、私は愛情の一環として不貞行為に及んだのであるから、民法の規定に本質的な意味で抵触したのである。

 私は二つの愛情の狭間で苦しんだ。私は妻を愛していないのではなかった。前妻との破局から、私は色々な反省を得た。そのとき、最も私が重く受け止めた教訓は「相手に依存しないこと」と「相手に愛されるような人間となる為に努力すること」の二つであった。自立した人間となり、相手に愛情を注ぎ、相手の幸福の為に行動すること、それによって今度こそ「離婚」という悲劇的な破局を回避すること、これが再婚に際しての私の重要な実存的課題であった。私は生来、我儘な人間であったが、そういう自分を改革せねばならないと痛切に感じていたのである。

 無論、我儘な性格が外殻を衝き破って露頭してしまうことも一再ではなかったが、私は粘り強く「愛情深い夫」として振舞うことに努力した。その努力が常に不足しているのではないかという不安を、片時も忘れることが出来なかった。何故なら、そうした努力の過不足は、妻の心理的情況によってのみ、測定されるものであったから、私は私自身の努力の過不足を、自分の考えで判定することが出来なかったのである。振り返ってみれば、それは異常な心理的情況である。妻がそれを求めた訳でもないのに、私は常に妻の顔色を窺うような生き方を選択していた。それは結局のところ、根本的な次元において、私が妻のことを信頼していなかったということだろう。離婚以来、私は如何なる男女も、永遠の愛を誓い合った男女でさえも、僅かな蹉跌の為に関係を破綻させるものであり、従って片時も油断してはならないという信仰を捨てることが出来なくなっていた。だから、私が妻の機嫌を損ねるような行動に出れば、妻は私を不要品の籠に抛り込むだろうと勝手に決め付けていた。私は妻の幸福を遮げない範囲で、自分の主張を訴えた。成る可く相手の要望に譲歩するように努めた。私は少しずつ主体性を失い、妻の機嫌を配慮することが生きることの根本を占めるようになっていた。繰り返すが、妻はそれを殊更に望んでいたのではない。恐らく妻は、私が考えていた以上に、私のことを愛情深い人間として評価してくれていた。ただ、彼女はそれが私の人工的な仮面であることには気付いていなかったと思う。この相互的な誤解は、私たちの関係を不幸なものに変えた。

 水滴が刻々と溜まるように、私の内部で限界が近付きつつあった。顔色を窺うと決めたのは私の独断であるのに、顔色を窺わなければ成り立たない状況に、私は不満を蓄積していった。丁度折悪しく、妻は育児のストレスに苦しめられて余裕を失っていた。彼女が不機嫌になる時間は増えていた。彼女が不機嫌であるということは、私の立場においては、人生の失敗である。不機嫌な妻の顔を見ることは、私にとっては、自らに課せられた使命の不履行を意味していた。私は苦しんだ。どうすればいいのか分からなかった。私は彼女の幸福の為に生きなければならないのに、彼女の不機嫌な顔は、私の努力の不足を暗示している。丁度年末の繁忙期で、小売業の現場は精神的にも肉体的にも過重な負担を私に強いた。家でも職場でも、私は安心するということが出来なかった。私は随分と疲れていて、自分の信ずるべき正しさが何処にあるのか、見えなくなっていた。そのとき、私は不倫相手となった部下の女性と共に働き、言葉を交わすことに、僅かな慰藉を得ていた。一度意識し始めると、感情の亢進は一瀉千里であった。一歩間違えばセクシャル・ハラスメントで告発されるところだが、幸いにして、彼女もまた私に好意を持っていた。無論、彼女は私に妻子があることを知っていたから、自ら積極的に関係を画策しようとはしなかった。総ては私が決断し、主導したことであった。その意味では、先方もまた被害者である。

 何故、私は不倫という関係性に逃げ込む前に、きちんと妻と向き合って話し合わなかったのだろうかと思う。結局、私は孤独な芝居を演じていただけだ。妻に嫌われることを懼れ、勝手に善良な夫を演じ、その芝居に堪えられなくなって潰れかかっても、妻に本音を打ち明けられず、結果として余所の女に手を出して慰藉を求めた。何もかもが幼稚で、独善的な構図であった。

 不倫が発覚したとき、私は妻と別れようと思った。それが不倫相手に対する誠意でもあると思った。きっと妻も、こんな穢れた男とは別れたがるだろうと思っていた。けれど妻は、私が不倫をしたという事実を知っても猶、二人の未来を信じようとしていた。私は妻にそんな覚悟があると思っていなかった。そもそも結婚は二人で合意して始めたことなのに、私は自分だけが相当な覚悟を背負っているような積りでいた。私が婚姻の成否に関わる総ての責任を負っているような積りでいた。私が何か手酷い行為に及んだら、妻は直ぐに絶望して、私の許を去るだろうと思い込んでいた。けれど、彼女は逃げなかった。私に傷つけられても、私を見捨てようとしなかった。私は今まで、彼女の何を見ていたのだろう。私は彼女が私の仮面を見破ってくれないことに不満を覚えていた。けれど、結局は私も同罪ではないか。私は彼女の真実を見ようとしていなかった。彼女の本気の覚悟を信じていなかった。そういうことが、不倫とその発覚という経緯を通じて、初めて分かった。

 結婚して数年が経ち、娘も生まれ、その間に私たちは随分と互いの真実を理解しているような積りになっていた。しかし本当は、互いの善良な部分しか見ていなかった。或いは、表面的な態度しか見ていなかった。今までの私たちの結婚生活は、茶番に過ぎなかった。子供の飯事に過ぎなかった。けれど、これからは違う。これから、私たちは本当の意味で、夫婦になるのだ。相手の顔色を窺うのではなく、自分の本音を勇気を以て伝え合うのだ。それで口論になったとしても、それは失敗ではなく、必要な過程なのだ。「愛している」という言葉は、不倫相手に対しても、幾らでも使うことが出来る。けれど生涯の伴侶に対しては「愛している」という安っぽい甘言は相応しくない。伴侶に対して言えるのは、「何があっても共に生きていこう」ということだけだ。この言葉は、不倫相手には決して言えない。何故なら、不倫には共に生きていくという未来が原理的に存在しないからだ。にも拘らず、私は不倫相手を愛してしまった。未来を与えぬままに愛した。それは彼女に対する罪であった。未来を与えぬ愛など、愛ではない。愛しいという気持ちがどれだけ切実なものであったとしても、未来を与えぬ者に、人を愛する資格はない。それが不倫の根本的な悪徳であると、愚かな私は、今になって漸く痛感しているのだ。