サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

三島由紀夫「金閣寺」再読 3

③「美的なもの」の破壊に就いての先覚者

 「金閣寺」における「私」とプラトニズムとの対決の過程には、或る脇役の存在が重要で決定的な影響を及ぼしている。「私」が大谷大学へ進学した後に知遇を得る「柏木」という級友である。彼の思想は、色々な意味で「私」に多様な示唆を与えている。言い換えれば、彼の存在は「私」と対蹠的な思想の秩序によって織り成されているのである。或いは、悪徳に蝕まれた思想的「陽画」であると言ってもいい。

 そうだ。俺は自分の存在の条件について恥じていた。その条件と和解して、仲良く暮すことは敗北だと思った。怨みようならいくらもある。両親は俺が幼児のときに、矯正手術をしてくれるべきだったのだ。今となってはもう遅い。しかし俺は両親に対しては無関心で、怨みを持ったりするのは億劫だった。

 俺は絶対に女から愛されないことを信じていた。これは人が想像するよりは、安楽で平和な確信であることは、多分君も知っているとおりだ。自分の存在の条件と和解しないという決心と、この確信とは、必ずしも矛盾しない。なぜなら、もし俺がこのままの状態で女に愛され得ると信じるなら、その分だけ、俺は自分の存在の条件と和解したことになるからだ。俺は現実を正確に判断する勇気と、その判断と戦う勇気とは、容易に馴れ合うものだと知った。居ながらにして、俺は戦っているような気になれたのだ。(『金閣寺新潮文庫 p.120)

 小説において登場する様々なキャラクターが、如何なる文学的意図にも関与せず、純然たる偶発的事件として顕れることは有り得ない。何故なら小説は、如何に素朴なリアリズムに基づいて克明に描かれていようとも、現実の単純で不完全な模写ではなく、人間の手で捏造された可能的な現実であり、従って虚構であるからだ。従って私たちは「柏木」という人物が登場することの意味を、この「金閣寺」という作品との関係において考え、捉えなければならない。

 「私」と「柏木」との複雑な友情の端緒が、銘々の抱え込んでいる身体的な「存在の条件」に基づいていることは明白である。「私」にとっての「吃音」と「柏木」にとっての「内翻足」が、彼らの間に生じた友誼の基本的な条件なのだ。両者は全く性格の異なる人物として設定されているが、彼らの間に「存在の条件」と如何にして向き合うかという実存的な課題が共有されていることは言うまでもない。

 「私」は「吃音」によって形成される内界と外界との隔たりを、プラトニズム的な二元論に基づいて認識し、処理している。「外界」の現象を「内界」に存在する超越的な理念の不完全な反映であると看做す「私」は、いわば「内界」の優位性に依存することで「外界」に対する「行為」への可能性を自ら扼殺している。換言すれば「私」は「外界」に対して常に「認識者」として留まり続けることを自らの存在に命じているのである。

 では、一方の「柏木」は、如何にして現実との関係性を処理しているのだろうか?

 俺はこういう不合理に納得がゆきかねた。その実俺の欲望はだんだん烈しく募って来ていたが、欲望が彼女と俺とを結ぶとは思われなかった。彼女がもし他人をでなくこの俺を愛しているのだとすれば、俺を他人から分つ個別的なものがなければならない。それこそは内翻足に他ならない。だから彼女は口に出さぬながら俺の内翻足を愛していることになり、そういう愛は俺の思考に於て不可能である。もし、俺の個別性が内翻足以外にあるとすれば、愛は可能かもしれない。だが、俺が内翻足以外に俺の個別性を、俺の存在理由を認めるならば、俺はそういうものを補足的に認めたことになり、次いで、相互補足的に他人の存在理由をも認めたことになり、ひいては世界の中に包まれた自分を認めたことになるのだ。愛はありえない。彼女が俺を愛していると思っているのも錯覚だし、俺が彼女を愛していることもありえない。そこで俺はくりかえし言った。「愛していない」と。

 ふしぎなことには、俺が愛していないと言えば言うほど、彼女はますます深く、俺を愛しているという錯覚の中へ溺れた。そうして或る晩、とうとう俺の前へ体を投げ出すようなことをやってのけた。彼女の体はまばゆいばかり美しかった。しかし俺は不能だったのである。(『金閣寺新潮文庫 pp.123-124)

 「柏木」は「世界」との和解を異様なほどの峻厳さで拒否している。柏木にとって生来の内翻足という「存在の条件」は断じて解消されてはならない絶対的な根拠としての役割を担っているように見える。彼は自分が「愛されない」存在であることを確信することで、己の精神的な秩序を安定させている。彼は「外界」と敵対し、永久に「和解」を拒み続けるという決意に基づいて、己の個人的な哲学を成立させているのである。

 こうした拒絶の美学が、柏木の人生に齎す具体的な効用とは何であろうか?

 俺は恥じていたが、内翻足であることの恥に比べれば、どんな恥も言うに足りなかった。俺を狼狽させたのはもっと別のことである。不能の理由が俺にはわかっていた。その場になって、俺は自分の内翻足が彼女の美しい足に触れるのを思って、不能になったのだ。この発見は、決して愛されないという確信の持っていた平安を、内側から崩してしまった。(『金閣寺新潮文庫 pp.124-125)

 柏木自身は、その絶対的な「拒絶」の効用を「平安」という言葉で呼んでいる。「絶対に女から愛されない」という「安楽で平和な確信」は、外界の現実への卑屈な従属からの解放という心理的効用を含んでいる。或いは「内翻足」という身体的条件を抱え込んだまま、社会的な現実との間に生産的な関係を取り結んでいくことからの解放を含意している。言い換えれば、彼が自らの「存在の条件」との和解を拒否するのは、それによって自らの存在を「外界」から保護する為である。この段階では、柏木の精神的秩序は「私」のそれと同一の水準に属しているように思われる。外界の現実から自らの存在を切り離し、内界の現象や観念に、外界のそれを上回る価値を賦与しようと試みる自閉的な姿勢が、彼らに共通する根源的な性質なのである。

 他人から絶対に理解されず、愛される見込みもないという内在的で独断的な確信が、何故「平安」を齎すのか。それは他者との間に繰り広げられる錯雑した社会的関係性からの離脱を意味し、その離脱を正当化する根拠として機能するからである。如何なる理解も愛情も与えられることがないという峻険な孤独の条件は、柏木の内部から、世界と和解し、世界に内属して生きようと努める理由を剥奪する。そのとき彼の孤独は、彼の絶対的な覇権を、つまり他者という厄介な異物を完全に排除した後に成立する完璧な主権を機能させる根拠と化す。愛され、理解されることに対する拒絶は、換言すればナルシシズムの「平安」を棄却することに対する拒絶なのである。自己に対する自己の評価を、他者という異物は多様な視角に基づいて身勝手に攪乱する。そのとき、自己の独裁的な視点の権威は無限に相対化され、他者との間に果てしなく持続する社会的な合意形成のプロセスが開拓される。

 柏木は「愛されても愛されなくても、どちらでも構わない」という開放的な身構えを選択することが出来ない。それは事態の決定権を他者に委任し、自己の受動的な状態を肯定することを意味するからだ。換言すれば、柏木はあらゆる対象への決定権を独占したいという幼稚なナルシシズムの欲望に囚われており、その根源には、一切の「他者的なもの」「外部的なもの」への恐懼と軽蔑が巣食っているのである。

 何故なら、そのとき、俺には不真面目な喜びが生れていて、欲望により、その欲望の遂行によって、愛の不可能を実証しようとしていたのだが、肉体がこれを裏切り、俺が精神でやろうとしていたことを、肉体が演じてしまったからだ。俺は矛盾に逢着した。俗悪な表現を怖れずに言えば、俺は愛されないという確信で以て、愛を夢見ていたことになるのだが、最後の段階では、欲望を愛の代理に置いて安心していた。しかるに欲望そのものが、俺の存在の条件の忘却を要求し、俺の愛の唯一の関門であるところの愛されないという確信を放棄することを要求しているのが、わかってしまったのである。俺は欲望というものはもっと明晰なものだと信じていたので、それが少しでも己れを夢見ることを必要とするなどとは、考えもしていなかった。(『金閣寺新潮文庫 p.125)

 これは飽く迄も我流の解釈に過ぎないが、柏木の「欲望というものはもっと明晰なものだと信じていた」という告白は要するに、欲望が如何なる他者的=社会的な枠組みとも無関係に、自律的に存在し、稼働するものであると信じていたという意味であろう。ナルシシズムの内界に閉じ籠もっていたとしても、欲望はそれ自体として独立的な実体を持ち、堅固な輪郭を備えて、愛情という社会的な関係性を媒介せずとも自在に発露し、充足させることが可能であるという確信が、柏木の内面においては「愛されないという確信」と共に同居していたのである。しかし実際には、欲望は主体の内面や他者との関係性から切り離された自律的な「機械」などではなく、明確に他者との社会的な関係性の内部に象嵌された現象であった。その認識が、彼の堅牢なナルシシズムの完結性に亀裂を走らせたのだ。欲望は明晰な独立的存在ではなく、絶えず他者との社会的な関係性の内部で構造化されているという認識は、ナルシシズムの平安の本質的な不可能性を告示するものである。他者との関係を断ち切り、世界との和解を拒否し続ける限り、欲望は機能せず、従ってその充足も成立しない。

 無論、それも一つの人生の様態であるかも知れない。つまり、本質的な意味で「欲望」の社会的な性質を拒み続けること、如何なる欲望とも無縁の状態を把持すること、出家遁世の求道者として世俗の享楽から離脱すること、それによって「涅槃の平安」を勝ち得ること、そうした生き方を選択するのは個人の自由である。

 だが、柏木はそうした仏教的修養の道筋を選び取ったのではなかった。つまり、欲望の不可能性を悟り、その抜本的な断念によって生きようと考えたのではなかった。彼は欲望というものの性質を書き換え、世界との和解を経由せずとも成立し、充足させることの可能な欲望の形態を発見したのである。

 不安の皆無、足がかりの皆無、そこから俺の独創的な生き方がはじまった。自分は何のために生きているか? こんなことに人は不安を感じて、自殺さえする。俺には何でもない。内翻足が俺の生の、条件であり、理由であり、目的であり、理想であり、……生それ自身なのだから。存在しているというだけで、俺には十分すぎるのだから。そもそも存在の不安とは、自分が十分に存在していないという贅沢な不満から生れるものではないのか。(『金閣寺新潮文庫 pp.126-127)

 生きている理由や目的の喪失、稀薄な実感、決して充実することのない生存、そういった感情は確かに「自分が十分に存在していない」という奇怪な認識に由来している。自分自身の生存の意義を明瞭に見定められぬとき、人間は己の存在を虚無的に捉え、その価値を怪しみ、生死の境目の実効性さえも疑い始める。つまり、生きていることと死んでいることの境界線が曖昧に霞んでしまうのだ。

 けれども柏木にとっては、生きていることは死ぬことと混同しようがない。彼は常に「内翻足」という「存在の条件」を直視せずにはいられず、従って彼は己の生存を透明な空気のように看做すことが出来ない。言い換えれば、彼は結局のところ、他者の眼差し、外部的で社会的な眼差しを黙殺することが出来ない。彼は他者から見られることを常に意識し、他者の視線に支配されることに慣れ切っている。彼が自らの「存在の条件」と和解出来ず、結果的に世界との和解にも至ることが出来ないのは、前述した見解と矛盾するが、寧ろナルシシズムの不可能性という決定的な傷痍の為ではないか?

 聊か論述の流れが混濁してきているので、一旦整理しておこう。彼が「愛されないという確信」から奇怪な「平安」を抽出するのは、彼がナルシシズムの監獄に逼塞して、不動の安寧を確保しているからではない。寧ろ彼は「内翻足」という「生存の条件」と和解しないことで、内翻足に対する社会の差別的な視線を内面化し、ナルシシズムの存立する基盤を徹底的に蹂躙しているのである。彼は自閉的なナルシシズムの揺籃に横たわり、懶惰な夢を貪っているのではない。そのような特権的幸福を享受する可能性は、内翻足という条件によって根本的に毀損され、否定されている。

 他人から見られるとき、彼の欲望は不能に陥る。他人から見られるとき、彼は自分の存在が世界から拒絶されているという悲劇的な真実に目覚めずにはいられない。彼が自らの欲望を成就する為には、他人からの抑圧的で差別的な視線を完全に排斥することが必要である。

 このときから、俺には精神よりも、俄かに肉体が関心を呼ぶものになった。しかし自分が純粋な欲望に化身することはできず、ただそれを夢みた。風のようになり、むこうからは見えない存在になり、こちらからは凡てを見て、対象へかるがると近づいてゆき、対象を隈なく愛撫し、はてはその内部へしのび入ってゆくこと。……君は肉体の自覚というとき、或る質量をもった、不透明な、確乎とした「物」に関する自覚を想像するだろう。俺はそうではなかった。俺が一個の肉体、一個の欲望として完成すること、それは俺が、透明なもの、見えないもの、つまり風になることであったのだ。(『金閣寺新潮文庫 pp.125-126)

 「透明なもの、見えないもの、つまり風になること」が実現したとき、柏木は一切の外部的な視線の抑圧から解き放たれて「純粋な欲望に化身すること」が出来るだろう。彼の欲望の形態は、窃視症を連想させる。彼にとって他者の眼差しを浴びることは、欲望の不能の重要な原因である。そうした不能の原理が「内翻足」という「存在の条件」が齎した特殊な構造であることは論を俟たない。そして柏木の固陋な精神は、飽く迄も「内翻足」と「世界」との間に穏健で友愛に満ちた和解が成立することを了承しない。「内翻足」という「存在の条件」を肯定し、容認することは、彼にとって心理的な敗北を意味している。それは「世界」の求める一般的な規則に適合しない自己を肯定することであり、従ってそれは「世界」に対する敗北を自ら容認することに他ならない。

 「愛されないという確信」の把持は、内翻足という端的な現実を受容しないという高潔な覚悟と相関している。換言すれば、彼は自分自身よりも世界を優先しており、内在的な価値観よりも社会的な規矩を尊重しているのである。内翻足だから愛されないという認識への絶対的な同意は、実際に内翻足である自分が具体的な他者から愛を享けるかどうかという実際的な判断とは無関係である。内翻足である限り、他者から愛されることは有り得ないという強固な妄信は、彼が常に外在的な価値の基準に依拠していることの露骨な明証であると言えるだろう。

 ここには「仮面の告白」において明瞭に示され、描き出された「正しさへの欲望」が残響している。本来ならば内発的であるべき欲望を「知的な仮構」と看做す異様なストイシズムの陰翳が滲んでいる。そうした観点から眺めるならば、柏木は「内界への逼塞」という甘美な安逸を根源的に剥奪された人間である。彼は他者の眼差しによって隅々まで占有された存在であり、他者の眼差しを内面化している為に決して自分自身の存在、厳密には「内翻足」という「存在の条件」を意識の領野から棄却することが出来ない。

 鏡を借りなければ自分が見えないと人は思うだろうが、不具というものは、いつも鼻先につきつけられている鏡なのだ。その鏡に、二六時中、俺の全身が映っている。忘却は不可能だ。だから俺には、世間で云われている不安などというものが、児戯に類して見えて仕方がなかった。不安は、ないのだ。俺がこうして存在していることは、太陽や地球や、美しい鳥や、醜い鰐の存在しているのと同じほど確かなことである。世界は墓石のように動かない。(『金閣寺新潮文庫 p.126)

 柏木は断じて自らの「存在の条件」を忘却することが出来ない。換言すれば、彼は断じて他人の眼差しを、他人の視点を、他人の審美的な基準を黙殺することが出来ない。彼の眼差しは常に社会的な眼差し、他人の眼差しによって占拠されており、それが彼の欲望の発露と成就を禁圧してしまう。この厄介な罠は決して逃れることが出来ない。何故なら、他者の眼差しを逃れる為には、彼は自らの存在そのものを透明な「不在」に書き換えなければならず、それは無論、不可能な夢想に過ぎないからである。そして彼の内部には既に他者の視線が陥入しており、彼にとって他者は自己の外部ではなく内部に根を張っている。「しかし忽ち内翻足が俺を引止めにやって来る。これだけは決して透明になることはない。それは足というよりは、一つの頑固な精神だった。それは肉体よりももっと確乎たる『物』として、そこに存在していた」(p.126)という文章を徴すれば明らかなように、最早「内翻足」という条件は、他者的な視線の象徴そのものにまで高められているのである。「内翻足」は、決して透明にならない。それは絶えず他者の眼差しに晒され、審美的に吟味され、社会的に鑑定されている。彼は他者の眼差しを仮想的に内面化することで、欲望の不能に陥り続ける。

 「俺は欲望というものはもっと明晰なものだと信じていたので、それが少しでも己れを夢見ることを必要とするなどとは、考えもしていなかった」(p.125)という文章を改めて想起してもらいたい。この文中の「己れを夢見ることを必要とする」という言葉は、如何なる事態を指し示しているのか? それは恐らく、ナルシシズム的な夢想に耽溺することである。他者の眼差しに囚われず、外在的な基準を無造作に踏み躙って、個人的で主観的な欲望の閉域に自足することである。だが、内翻足という存在の条件を通じて他者の眼差しを内面化している柏木にとって「己れを夢見ること」は、それ自体が永遠に到達の不可能な夢想に過ぎない。

 老いた寡婦の皺だらけの顔は、美しくもなく、神聖でもなかった。しかしその醜さと老いとは、何ものをも夢みていない俺の内的な状態に、不断の確証を与えるかのようだった。どんな美女の顔も、些かの夢もなしに見るとき、この老婆の顔に変貌しない、と誰が云えよう。俺の内翻足と、この顔と、……そうだ、要するに実相を見ることが俺の肉体の昂奮を支えていた。俺ははじめて、親和の感情を以て、おのれの欲望を信じた。そして問題は、俺と対象との間の距離をいかにちぢめるかということにはなくて、対象を対象たらしめるために、いかに距離を保つかということにあるのを知った。(『金閣寺新潮文庫 p.129)

 この発見は「金閣寺」という作品を貫く最も重要な主題との間に、密接な関連を有している。「己れを夢見ること」とは即ち「美的なものへの耽溺」である。美的なものに接近し、耽溺する為には、対象の美的な性質を夢想し、確信することが肝要である。或いは、美的な存在によって包摂された自己を信じることが必要である。しかし「内翻足」という存在の条件によって他者の審美的な眼差しを刷り込まれた柏木の欲望は、美的な対象に接近することで不本意な挫折を強いられてしまう。彼が自らの欲望を成就するに際しては、対象の美的な性質は歓びを強める触媒ではなく、寧ろ致命的な障碍となるのである。

 結果として柏木が編み出したのは「美的なものの否認」という心理的技法であり、一切の美的な観念を排除して事物の「実相」に到達するという冷徹な身構えを内面化することであった。美という尺度そのものを否認し、拒絶し、如何なる美しいものも煎じ詰めれば「夢」=「仮象」に過ぎないと断じることで漸く、彼は己の欲望の不能から脱却することに成功したのである。その意味では、柏木という友人は語り手の「私」にとって重要な先覚者の位置を占めていると言える。

 見るがいい。そのとき俺は、そこに停止していて同時に到達しているという不具の論理、決して不安に見舞われぬ論理から、俺のエロティシズムの論理を発明したのだ。世間の人間が惑溺と呼んでいるものの、相似の仮構を発明したのだ。(『金閣寺新潮文庫 pp.129-130)

 性的な「欲望」は一般に対象との想像的な融合を図るものだが、柏木の編み出した論理は、それとは対蹠的な性質を帯びている。彼は寧ろ欲望の対象から無限に遠ざかることで、己の肉体的な興奮を維持し、高揚させる。一見すると禁欲的な「停止」の状態が、性的な欲望を成就する為の決定的な要件であるという逆説が、いわば彼の「人生」の方法論なのである。彼は美的なものを「仮象」に過ぎないと断じることで、欲望の不能から、つまり「人生」の不能から恢復した。その独特な論理が、プラトニックな理念の虜囚と化した「私」の眼に示唆的な仕方で映じるのは当然の理窟である。

金閣寺 (新潮文庫)

金閣寺 (新潮文庫)