サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「児童虐待」に就いて

 先日、五歳の女の子が虐待を受けて死亡したというニュースが流れていました。

 如何にも惨たらしい、そして独善的な惨劇です。概要を聞いているだけで胸が締め付けられるような事件です。虐待を日常的に行なっていたと思われる父親と、それを黙認していた母親に対する憎しみは、他人事ながら、私の胸にも湧き起こりました。

 どんな理由を拵えても、子供を長期的な拷問に掛けるような真似が正当化されることはありません。確かに日常的に接していれば、幼い子供というのは脆弱で儚い存在であるとは思えない場面にも頻々と遭遇します。我儘で、此方の都合など歯牙にも掛けず、遣りたい放題、言いたい放題の子供の姿を眺めていると、小さな怪物のようにも思われて、子供相手ながら、理不尽で聞き分けのない大人に対するときのような怒りに駆られることも、実際にあります。

 けれども、子供が無力で、大人の庇護を必要とする存在であるという事実は変わらないのです。どんなに我儘で、親を振り回すような子供であっても、少なくとも五歳くらいの年齢では、親に見放されれば忽ち餓死する他ない脆弱な存在なのです。そうした権力の構造を閑却したのか、或いは悪用したのか分かりませんが、逮捕された父親が自らの権力を用いて無力な子供に死に至るほどの苦痛な時間を与えた、腕尽くで強いたという事実は揺るがないのです。

 無論、こうやって容疑者を声高に断罪することは誰にとっても容易な所業です。育児というものが、非対称的な人間関係であると同時に、様々な道徳的=社会的抑圧の渦巻く現場である以上、綺麗事だけを並べて乗り越えることは殆ど不可能に等しいと言えるでしょう。子供も親も、銘々の個性は千差万別であり、万人に適用し得る普遍的で堅固なマニュアルは何処にも存在しません。子供に対する怒りや憎しみの感情は、悪しきものとして斥けられるのが常であり、無論それを野放図に肯定すべきではないと私も思います。けれども、悪しき感情を抑圧するだけでは、却ってこのような「密室の惨劇」は何時まで経っても消え去らないのではないかと思います。私たち親は、如何なる例外もなく、潜在的な犯罪者としての烙印を己の膚に刻んでいると考えるべきでしょう。それは私たちの性情の良し悪し以前に、親子という間柄がそもそも非対称的な権力の関係として成り立っていることに由来する宿命であると言えます。

 もっと根源的に考えていけば、私たちの生殖能力と、育児に関する能力との間には、明白な乖離があります。生殖能力は概ね肉体的な問題ですが、育児に関する能力はもっと多様で後天的な要因に左右されます。健康な赤児を産む能力と、子供を幸福へ導く能力との間に、一義的な関係は存在しません。不妊に悩む人の中に優れた親としての資質を備えている人もいれば、子沢山でありながら親としての資質に欠けている人も幾らでも存在するでしょう。

 産んだ人間が育てるということは、私たちの社会を形作る基本的な規則の一つです。けれども、産んだ人間に育てる能力が欠けていれば、子供の不幸は宿命的に決定されてしまいます。産んだ人間が、自らの子供を憎むということは現実に起こっています。それは異常な事態だと看做され、結果としてその事実は抑圧されています。不快な現実から眼を塞ぎ続ける限り、児童虐待の悲劇は今度も無限に繰り返され、無辜の命が次々と失われていくでしょう。

 子供を産み、育てる力を「生得的な本能」と看做す思想は、明瞭な客観的根拠に基づいた認識であるというより、社会の側から、その成員に向けられた期待であり、要請です。つまり、それは現実というよりも「理想」に過ぎないのです。そして現実の側には常に「理想」を裏切る準備が整っています。現実は、理想という人工的なフィクションに対して無関心なものだからです。だとしたら、諸悪の根源は「幸福な家庭」という社会的幻想そのものに内在しているということになります。「幸福な家庭」の自明性を疑わず、それを前提として社会的な制度を設計するから、その歪みが隠蔽され、矛盾が惨劇として露呈するのです。

 虐待を行なった人間に社会的な制裁を加えることは常に「後の祭り」です。今回の事件の被疑者を断罪しても、死んだ子供の命は復活しないし、彼女が味わった地獄のような時間は消去されないのです。「事後の更生」が重要であることは無論ですが、それでは犠牲者を皆無にすることは出来ません。「更生」や「教育」が常に完璧な成果を発揮するとも限りません。そもそも世の中には、明確な覚悟を持たずに子供を作る人々が無数に存在しています。その背景に「幸福な家庭」の自明性という思想が関与していることは確かでしょう。子供への愛情を人間の「生得的な本能」として定義する社会の通念は一旦、否定されねばなりません。

 こうした事態が続くならば、将来的には出産と育児を「万人に認められた選択肢」から「社会によって許可された者だけに与えられた選択肢」へ移行させねばならなくなります。出生率の低下と人口の逓減に悩む国家が、そのような制度を実際に導入することは難しいでしょう。けれども、現代の出生率の低下は、児童の幸福という観点から眺めれば、必ずしも呪うべき事態ではありません。誰もが当たり前に結婚して子供を作るのではなく、自らの思考と責任に基づいて結婚して子供を作るようになれば、相対的には、児童を虐待する不適格な親の数は減少するでしょう。「皆婚社会」は子供の数を増やしますが、それは同時に虐待の発生する危険を高めるものでもあります。ただ、こうした変化は飽く迄も根源的な解決には寄与しません。そもそも社会として「子供を産み、養育する能力」を涵養する方策を整えること、不幸にして親に恵まれなかった子供たちを養育する社会的な制度を設計して正しく運用すること、これらの抜本的な改革を抜きにして、自信のない人間は子供を持たなければいいと言い捨てるだけでは早晩、国家の滅亡は避け難い宿命と化します。同時に、他人の子供に対する不寛容を容認することにも繋がりかねません。

 児童虐待は、パワー・ハラスメントの最たるものです。差別であり弾圧であり、悲惨な暴力の典型です。子供は庇護されるべき存在であるという通念を社会全体に浸潤させない限り、そして子供を親の「所有物」であるかのように位置付ける不法な考え方を廃絶しない限り、虐待は消滅しません。この「子供は親の所有に帰属する」という考え方は、家庭という社会的単位を維持する上では必要かも知れませんが、明らかに虐待の温床となる思想であると言えます。血縁というものを過度に重視し、親子の紐帯を特権化することで、家庭は社会的なものの侵入を拒む性質を持っています。此処には錯雑した困難が存在しています。家庭の適度な閉鎖性は、家庭の成員を社会の圧力や脅威から防衛する効果を持っています。つまり、それは子供にとっても重要な安らぎの根拠となるのです。けれども、この閉鎖性の悪質な側面が強まれば、家庭は子供を縛り付ける監獄と化します。これは夫婦関係に就いても同様に指摘し得ることでしょう。家庭は防塁であると同時に監獄でもあります。この微妙な二重性の均衡が崩れてしまえば、児童虐待の温床は一挙に劇しく陰湿な暴力を芽吹かせることになるでしょう。