サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

音楽における「理性」と「感性」

 偶々YouTubeフレデリックという名の関西出身のバンドの曲を聴いて、割と気に入った。きちんと歌詞を読んだ訳ではないが、言葉に過剰な意味が与えられていない。私はサカナクションPerfumeの音楽を好んでいるが、彼らの楽曲においても、言葉は意味よりも遥かに深く強く音楽に奉仕しているように聞こえる。一つ一つの言葉は、その意味によって選ばれる以上に、音の響きや調べによって選び取られている。それが耳に心地良く響くのだ。

 言葉というのは不思議なものだ。それは単なる記号でも、意味の連なりでもない。だが、そこに如何なる意味も担われていなければ、それは言語とは呼ばれないだろう。一口に音楽と言っても、歌詞の「意味」に大きな比重を与えているミュージシャンは大勢存在する。その一方で、言葉の響きだけを愛しているように見えるミュージシャンも少なくない。私は決して、両者の優劣を論じているのではない。言葉に対する意識の在り方は多様であり、それを一義的な規律によって拘束するのは退屈であり、不当である。

 言葉が明晰な意味を、つまり単純な記号のように明確な役割だけを持つとき、言葉は極めて論理的な性質を宿すようになる。一義的な言葉は、世界を明瞭に語り、事実を厳密に特定する場合には画期的な有用性を発揮する。そのとき、言葉と意味との間には不動の密接な関係が構築され、両者の輪郭は完全に重なり合う。

 けれども、それが言葉という不可思議な存在、或いは機能の価値の総てだと言い切るのは生産的な態度ではない。私たちは言葉を純粋な音として愉しむことが出来るし、文字の表情を視覚的に味わうことも出来る。文字を純然たる視覚的形象として捉える芸術、書道やタイポグラフィ(typography)もまた、言葉を意味から切り離して認識しているように見える。しかし私たちは両者を、つまり言葉の意味的=内在的な側面と、物理的=外在的な側面とを完全に分離させた上で取り扱っている訳ではない。言葉の重層性は、それが物理的な音声であったり形象であったりするのと同時に、意味という記号的な性質を伴っているという両義性によって培われ、齎されている。言葉は単なる意味の連なりではないが、意味という原理から完全に自由になることも出来ない。

 洋楽は歌詞の意味が分からないから好まないという趣味の人も世の中にはいる。そうした人々は音楽を「意味」として捉えずにいられないほど、明瞭な世界観に囚われているのだろう。けれども、言葉の意味が分からずとも、洋楽の旋律や響きに心を奪われることは可能である。音楽が国境を越え得るとすれば、それは音楽が意味に還元されない価値を発揮し得るものであるからだ。

 こうした問題は、理性と感性との二元論的な対立と同型の構造を有している。理性は絶えず意味に縛り付けられ、対象の意味を問い、世界の体系的な聯関を把握しようと努める。言葉に限らず、理性はあらゆる事物の背後に、別の事物の存在を想定しようと企てる。それが理性に内在する本能のようなものである。

 けれども感性は、そうした「事物の背後」よりも、事物そのものに強く惹きつけられ、事物そのものの知覚的な形象を重視する。事物そのものを捉えようとするとき、理性が拵えた意味の網目は却って余計な障碍となり得る。事物そのものを捉えるとき、私たちは予期される一切の意味的な拘束を解除せねばならない。

 例えば一般に私たちが金銭を欲するのは、金銭が様々な価値を代理し、可能性を想定させるからである。金銭そのものに価値を見出すのではなく、金銭が可能にする様々な人生の選択を、金銭の「背後」に見出して欲望を亢進させるのである。しかし、貨幣の蒐集家は、貨幣の経済的な意味ではなく、貨幣の物理的な存在そのものを愛する。無論、彼らの欲望が貨幣に関する種々の「意味」を完全に排斥しているとは言えない。例えば彼らが或る硬貨の「稀少性」を得々として熱く語るとき、彼らはその硬貨の「背後」に光り輝く「意味」を見凝めているだろう。

 完全に意味を排除して、事物の純然たる実相を捉えることは殆ど不可能に等しいが、少なくとも、そうした状態を目指し、肉薄することは不可能ではない。そのとき、人間は言語的な意味の体系に汚染されない、感性的な領域へ自らの存在を移行させることになる。無論、感性さえも一つの「意味」であることは確かだ。しかし、それは言語的な意味によっては汚染されない、或いは包摂されない部分を隠し持っている。

 音楽が感性的な芸術であることは言うまでもない。尤も、だから言語的な意味の混入を極力避けるべきだなどと、門外漢の驕慢な言辞を弄する積りはない。ただ、折角ならば音楽には言語的な意味の形成する秩序を超越してもらいたいと願ってしまう。言語的な意味に寄り掛かった抒情に、音の秩序を添えるだけで作品の完成を信じるならば、音楽の備えている本来的な特権は決して輝くことが出来ないだろう。