サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「殉国紀」 第十四章 樹海の社にて 3

 敏捷な鹿の背に跨って先導するフェレッサの後ろ姿を追って、渋面のサスティオは黙々と獣車を駆り立てた。午前の光が射し込む切通しを抜け、再び薄暗い樹海の小径に貧相な轍を刻む。軈て木立が途切れ、俄かに開けた視界の涯に、巨大な城壁が忽然と姿を現した。神秘的な深緑の岩石を堅牢に積み上げて作られたその城壁は、果てしなく広がる樹海の陰鬱な色彩に滑らかに溶け込んで見える。宮城を去って聖職の途へ身を投じた健気な寵姫の安全を慮って、黄駿帝が南方の都市トガインから態々運ばせた稀少な常緑岩が、不届者を眩惑する為に迷彩の効果を発揮しているのだ。常緑岩は、トガイン近郊に点在する一部の採石場でしか切り出されることのない途方もなく高価な岩石で、王家の威光と権勢がなければ到底城壁の全面に惜しみなく用いることは不可能であっただろう。

 城門を塞ぐ重厚な鋼の鎧戸は、常緑岩より聊か暗く濁って見える濃緑の塗料で表面を覆われていた。掖門の傍に警衛番所と目される古ぼけた小屋があり、獣車の轍の掻き立てる時ならぬ地響きを聞き咎めたのか、数人の屈強な護官が険相を浮かべて番所の前に居並んでいた。

「フェレッサ、何事か。神聖なるスコルディルの森に、横暴にも獣車の轍を刻むとは、不敬であろう」

 古参の風格を身に帯びた長身の護官が、日に灼けた頬を厳めしく引き絞って、分厚い喉を顫わせた。鞣革の簡素な鎧を、立派な胴回りを抑え付けるように着込んだ、恰幅の良い中年の男である。佩刀の柄頭には、高貴な地位を象徴する鮮やかな緑色の碧玉が埋め込まれて、天空から降り注ぐ清冽な光に燦然と燃えている。

「ウェンシス護官頭。彼の獣車は、私の伯父に当たりますサスティオと申す馭者の持ち物に御座います」

 鹿の背から軽やかに飛び降りたフェレッサは速やかに膝を屈して地面へ蹲踞し、緊迫した面持ちと上擦った声音で、我儘な身内の名を上官に告げた。

「縁戚の者であろうと赤の他人であろうと、此処は不浄を忌む聖域だ。スコルディルの森へ、俗人を招じ入れる罪は重いぞ。お前も当地の禁則を弁えておらぬ訳ではあるまい」

 護官頭のウェンシスは、上長から授かった職責に相応しい重厚な声音を響かせて、部下の軽率な判断を厳しく咎めた。爛々と燃え盛る榛色の瞳には、長年に亘って神聖な樹海の鎮護を担ってきた男の矜持と強固な信念が、明瞭に刻み込まれていた。

「心得ております、護官頭。どうか私に、申し開きの機会をお与え下さい」

 フェレッサは窮屈な平伏の体勢を崩さずに保ったまま、護官の靴の尖端を敬虔な眼差しで見凝めて、咬み締めるように一つ一つの言葉を発した。

「申し開きなど不要であろう。時間の無駄だ。速やかにその獣車を神域の外へ放逐せよ。逆らえば、如何に忠良の内寓であっても、破門の憂き目は避けられんぞ」

 ウェンシスの峻厳な眼差しは、フェレッサの背後に控える薄汚れた獣車を、重罪を犯した穢れた咎人のように冷ややかに蔑んでいた。

「伯父は急ぎの客人を乗せております。然る高貴な御方から密命を受けて、帝都アルヴァ・グリイスへ赴かれる途上にあるのです。どうか、御目溢しを願えませんでしょうか」

「言うに事欠いて、御目溢しだと?」

 唯でさえ刻々と猜疑心を膨れ上がらせているウェンシスの眼光は、フェレッサの不用意な言葉に煽られて一際炯々と熱を帯びた。

「お前は私に不正を犯せと言うのか? 聖域の禁則を枉げて、訳の分からぬ怪しげな俗人の為に便宜を図れと申すのか?」

「滅相も御座いません! 決してそのような意図を以て申し上げたのでは御座いません」

「ならば如何なる意図を籠めて、私に犯罪の片棒を担がせようとするのか、筋道を立てて釈明してみるがいい」

 不穏な激情を露わにしたウェンシスの眉間には、断崖を想わせる険しい皺が寄り、その総身から発せられる瞋恚の波動に打たれて、フェレッサのみならず周りの護官たちも冷汗を滴らせた。

「不届者を放逐せよと敢えて命じた私の温情を、お前は聊かも理解しておらぬ様子だな」

 ウェンシスは一歩を踏み出して、慄きと共に叩頭するフェレッサに近付き、その引き締まった項へ落雷のような凝視を浴びせた。

「直ちに捕縛せず、引き返せと命じたことそのものが、お前の望む『御目溢し』に該当するとは考えんのか? それほど浅薄な男であるとは思わなかった。己の眼力の未熟を恥じるのみだな」

「御許し下さい、護官頭」

 追い詰められたフェレッサの悲痛な訴えは、獣車に乗り組んだ招かれざる客人たちの鼓膜に、刺々しい擦過傷を幾重にも走らせた。堪りかねたラシルドが客車の扉に逞しい指先を掛けたので、フェロシュは素早く冷淡な諫言を唾のように吐き捨てた。

「自ら進んで人相を晒すのは賢明な判断ではありません。少なくとも、あの護官たちを斬り伏せる覚悟がないのならば」

「彼の立場を慮る積りはないのか。あの青年は、我々の為に不当な窮地へ追い込まれているんだぞ。指を銜えて、安穏な観客を気取る訳にはいかん」

「騒ぎが大きくなるだけです。どうせ騒ぎになるのなら、残らず殺す積りで扉を開けて下さい」

「お前は血の気が多過ぎる」

「あれだけ多くの生き血を吸った後で、今更善人の仮面なんて被れないわ」

 相変わらず、目上の人間に対する世俗的な敬意を平然と踏み躙って恥じようともしないフェロシュの傲岸な素振りに、流石のラシルドも安手の苛立ちを覚えずにはいられなかった。構わず内側の把手を握り締めて思い切り扉を開け放つと、ラシルドは護官たちの敵意に満ちた注視に臆することもなく、堂々たる足取りで眼前の修羅場へ迫った。

「お前が、ならず者の頭目か」

 這い蹲るフェレッサから目線を外して、ウェンシスは威厳に鎧われた頑強な体躯を押し出すように、ラシルドを迎えた。澄んだ緑色に燦めく碧玉を柄頭に埋め込んだ佩刀の金具が、その重厚な動作に合わせて不穏な音色を響かせた。

「如何なる料簡で、その不浄の身を、神聖なるスコルディルの樹海へ紛れ込ませたのか、釈明してもらおうか」

「釈明は無意味だと、先刻仰言ったばかりではありませんか」

 ターラー正教会の敬虔な信者であるラシルドにとっては、宗旨の垣根に拘らず、立派な風采を持つ内寓の貴人に向かって無礼な口を叩くことは決して本意ではなかった。けれども今更、樹海の道を引き返して官道を往くことは余りに危険で無防備な選択肢であるし、フェレッサの軽率な言動に護官頭が忿怒を滾らせている今となっては、無傷で逃げ帰ることも許されそうにない。ラシルドは肚を括り、相手の激情を更に煽り立てることさえ辞さずに、正面から護官頭の攻撃的な眼差しに対峙した。

「単なる商人が、態々好き好んでミューバの神領を渡ろうと思いつくとは考え難い。後ろ暗いことがなければ、誰もそのような不敬の罪を敢えて犯そうとは思うまい」

「確かに我々は、人には言えぬ密命を担っております。そうでなければ、護官頭の仰言る通り、禁断の樹海へ獣車で乗り込むことなど思いも寄りませぬ」

「ならば、如何なる密命を帯びているのか、さっさと白状するがいい」

 ウェンシスの表情を覆い尽くす野蛮な殺気が少しずつ色褪せつつあることを、ラシルドは鋭敏に察知した。固より国内で最も古参の部類に属する神領の護官頭に擬せられるほどの人物が、一過性の感情的な奔騰に長々と引き摺られて、己の理性を何時までも抑圧し続ける筈もなかろう。ラシルドは意地を張って白を切り続けるよりも、素直に一連の顛末を語って聞かせた方が得策ではないかと思案した。ミューバ神領に住まう浄身派の正教徒たちは、外界の血腥い現実から隔絶された人々である。帝国全土を震撼した二十年前の雷鳴戦争においても、彼らは鬱蒼たるスコルディルの樹海の奥深くに隠棲して、あらゆる政治的な立場からの自由を吝嗇な態度で堅持した。今、殉国隊の残党が追い込まれている窮状から、如何なる利害も享受する見込みのない彼らが、捕縛した不審者を直ちに帝都の腹黒い叛逆者たちに売り渡そうと企てるとは思えなかった。

「我々は、雷声帝の遺児、ガルノシュ・グリイスを領袖に戴く連中に、命を狙われております」

 ラシルドの発した不穏な言葉は、地面に膝を屈したまま、一連の応酬を凝然と眺めていたフェレッサの顔色を蒼白に染め上げた。ウェンシスの背後に居並ぶ護官たちも、覆面に半ば遮られた銘々の顔へ、動揺と当惑の感情を忽ち行き渡らせた。

「ガルノシュ・グリイスだと?」

 ウェンシスの双眸に浮かび上がる追憶と混乱の光を眺めて、ラシルドは己の挑んだ乾坤一擲の賭けが充分な威力と効果を発揮したことを理解した。

「何故、雷声帝の遺児が、お前たちの首を刎ねようと画策するのだ」

「我々は殉国隊の残党に御座います、護官頭」

「殉国隊? 寝言を申しておるのか」

 猜疑心に満ちた眼光が、ラシルドの鼻面を撫で斬りにするように鋭く閃いた。

「寝言ではありません。私は嘗て殉国隊の首領を務めておりました、ラシルドと申します」

 ラシルドは背筋を伸ばして改めて威儀を正し、ウェンシスの燃えるような双眸を渾身の力で凝視した。先方の立場から眼前の事態を眺めれば、俄かに現れた胡散臭い不浄の俗人が唐突に殉国隊の残党を名乗った訳で、そんな奇態な言い分を直ちに鵜呑みにすることが出来ないのは至極尤もな話であった。然し思い切って信じてもらわなければ、現下の膠着した状況を打開することは不可能である。後は相手の理性と度量の深さに総てを賭して、命運を委ねるしかない。幸いにして護官頭は、旧弊で閉鎖的なミューバ神領の住人でありながらも、決して狭隘な心根の持ち主ではなかった。

「その言葉の真偽を、今此処で糺しても無益であろうし、私にその権限は与えられていない」

 息苦しい沈黙を暫く溜め込んだ後で、ウェンシスは双肩に凝った力を抜くように逞しい首を揺すった。

「護官長の裁可を仰ぐべきであろう。護堂へ案内する。フェレッサ、この者たちの武具一切を預かれ」