サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「殉国紀」 第十四章 樹海の社にて 5

「素性を明かしてもらえるかね。我々ミューベロスは国家に飼われた奴婢ではなく、崇高なる神帝穹下に仕える聖隷だ。たとえ人殺しであろうと、問答無用で警事局へ突き出すような真似はしない。我々が重んじるのは飽く迄も、この樹海の深淵で培われた掟だけだ」

 澄み切った栗色の瞳の表面を、一片の重厚な陰翳が静かに掠めた。神聖なるスコルディルの森へ獣車で乗り入れた不届者の処遇に就いて、護官長が無辺の慈悲と寛容を以て報いようと考えている訳ではないことを、その不穏な陰翳は暗黙裡に示していた。虚偽の供述を拵えて安易に欺こうとすれば、彼の眼光は忽ち比類のない峻厳な焔を宿すであろう。表向きの温厚な物腰を鵜呑みにして、杜撰な対応で隘路を切り抜けようと企てるのは危険な博打であるに違いない。

「どうだね。答え難いのならば、順番に訊ねていこうか」

 キーファンの複雑な意図に満ちた眼差しは先ず、落ち着いて唇を引き結んだラシルドの顔に向けられた。

「先ずは君からだ。名前を訊こう」

「何もかも、語らねばなりませんか」

 ラシルドは飽く迄も平静を装って、窮境を打開する為の糸口を掴む為に時間を稼いだ。尤も、彼が今置かれている立場を鑑みれば、樹海の深みで悠長に肚の探り合いを演じている余裕など毫も存在しないことは明白であった。

「この期に及んで、器用な偽証を延々と聞かされるのは気が進まないな。御互いに無益な話だとは思わないかね」

 微細な苛立ちさえも完璧に払拭した賢者の相貌を堅持して、護官長は静かな口調で切り返した。その眼差しに潜む熟成された威厳の力強さは、嘗て帝国義勇軍で最も精強な部隊と目され、敵対する陛派の将兵から憎悪に満ちた畏敬の念を捧げられた殉国隊の頭領であったラシルドにとっても、容易に抗うことの出来ない水準に達していた。口さがない連中は、煩悩を断ち切る為に自ら腐刑に甘んじて、外界と隔絶した叢林の深淵に逼塞し、来る日も来る日も聖隷の修業に明け暮れるミューベロスのことを、世間知らずの役立たずだと嘲笑って恥じないが、護堂に蟠踞する精強な体躯を備えた初老の男を詳さに眺めれば、そんな脆弱な先入観は立ち所に潰えてしまうであろう。キーファンの総身を鎧っている威光の確かさは、彼が単なる樹海の隠者ではなく、堅固に鍛え抜かれた心胆の持ち主であることを如実に物語っていた。

「我々がその気になれば、神領保全法の定める特別条項に基づいて、君たちの首を刎ねることは実に容易い。不浄の俗人に聖隷の土地を踏み荒らされて、大人しく黙り込んでいる義理もないからな。だが、幸いにして此方の寛容な護官頭様は、君たちを無造作に斬り殺すことに躊躇いを覚えた。此れはまさしく、奇蹟に類する決定なのだよ。君たちには稀少な弁明の機会が与えられた。その機会を活かすも殺すも、君たちの心掛け一つに委ねられている」

 キーファンの瞳孔が一際鋭く引き絞られて、注がれる苛烈な眼光は愈々劇しく強まった。国家の奴婢ではなく、神帝に仕える聖隷だと自負する護官長の口吻には、帝国が長年に亘って正教会に許してきた目映いばかりの威光が、明瞭な反照を投じている。そもそもミューバ神領は黄駿帝の肝煎りで創建された屈指の古刹であり、グリイス王家との所縁は著しく深い。国家の奴婢ではないと言い張る護官長の権威を、見えない暗がりから支えている政治的背景の頼もしさを黙殺するのは、欺瞞的な判断である。ラシルドたちの素性と此度の経緯を残らず聴き取った上で猶、官憲への身柄の送致を望まずにいてくれるかどうか、迂闊に儚い信頼を懐くのは危険な選択であるように思われた。

「樹海の掟に照らして、我々が無辜の人間であることを証せと仰言るのですね」

 聊か不敵な物言いに聞こえることを計算に含めた上で、ラシルドは飽く迄も沈着な語調を崩さずに、護官長の迂遠な恫喝の中身を要約してみせた。キーファンは眩しそうに眼を細め、口許を僅かに綻ばせて、壁際の護官頭へ手を掲げて合図を送った。

「煎じ詰めれば、そういうことだ。一方的に喉笛を掻き切られるよりも、遥かに真っ当な提案だとは思わないかね。ウェンシス、お前に書記の役目を任せよう。一言一句忠実に、如何なる私見も交えずに、記録へ遺すのだ」

 俄仕立ての右筆に指名されたウェンシスは、仮面のような沈黙を少しも掻き乱さずに、部屋の片隅に置かれた小さな卓子へ機敏な足取りで歩み寄り、書記の仕度に着手した。室内を領する静謐な空気は暗黙裡に、如何なる詭弁も偽証も容認しないという護官たちの確固たる決意を含んで、緊迫している。背筋を僅かに屈めて小卓に向かうウェンシスの上目遣いの眼差しにも、年代物の執務机を挟んで革張りの椅子に深々と腰を埋めたキーファンの悠揚たる眼差しにも、連行された不埒な闖入者たちへの威圧が等しく滲んでいた。どうやら、観念して総てを白日の下に曝け出す覚悟を固める以外に途はないらしい。ラシルドは膝の上に置いた拳を静かに握り締めて、毅然と眦を決した。

「白状する積りになったようだな。賢明な判断だ」

 口許に仄かな微笑を閃かせて、キーファンは徐に上体を乗り出し、鋭利な眼光をラシルドの顔へ向けて固定した。

「名前と生まれを教えてくれ」

「ラシルドと申します。出身はベルドーウィン」

 待ち構えていたウェンシスの筆鋒が迅速に滑り出して、純白の紙面に虜囚の陳述を淡々とした身振りで書き取った。

「殉国隊の首領ラシルド。樹海の深淵に隠棲して数十年を閲する私でも、その名には聞き覚えがあるよ。グリイス広場で、雷声帝の斬首という重大な役割を担った、伝説的な部隊の頭目

 温厚な口調とは裏腹に、キーファンの清澄な瞳には辣腕の検事局長を想わせる非情な光沢が宿っていた。二十余年前、雷声帝アイルレイズと皇弟セファドの反目を端緒として勃発した擾乱は、瞬く間に帝国全土へ瀰漫し、市井の庶民でさえ吹き荒れる血風を免かれて一身の安全を堅持することは困難を極めた。グリシオン人の絶対的優越を謳歌し、異族の人権を藁屑の如く軽んじたアイルレイズの虐政は、多種多様な民族の緩やかな盟約で練り上げられた緑邦帝国の政治的体質に対する過激な挑戦状であった。差別的な圧政の続く間に各地で入念に醸成された民族主義的な情熱は、皇弟セファドが旧都地区に構えていた「月華館」と称する宏壮な自邸に、アイルレイズに使嗾された黒衣隊の精兵が火を放って以来、連鎖的な爆発を惹起し、血腥い政争は総ての都市を嚥下して、あらゆる街衢、あらゆる家並、あらゆる石畳に罵声と喊声を轟かせた。

 その渦中においてさえも、ミューバ神領の筋金入りの政治的中立は厳格に保持された。正教会の定める神領には、グリイス王家との所縁に基づいて整備された「王統神領」と、劫掠された異族の魂魄を鎮撫する目的で建設された「公統神領」との伝統的な区分が存在しており、暗黙裡に「王統神領」の優等が是認されている。この歴史的な慣習に従えば、黄駿帝オルダーリの肝煎りで建造されたミューバは「王統神領」の範疇に属する。信仰に殉ずる為ならば男根を斬り落とすことさえ辞さない浄身派門徒の苛烈な思想を、アイルレイズは警戒すると共に酷く気味悪がっていたと言われるが、樹海の暗がりに隠棲して外界との交わりを極限まで倹約している狷介な変わり者の群れを、殊更に刺激する必要を認めなかった暴君は、ミューバ神宮に対して政治的な踏み絵を迫らなかった。ミューバが王統神領であり、彼の憎悪する異族の血統に深い縁故を持たないことも、悪逆な覇王の露わな敵意を免かれた要因であったろう。

「華々しい栄光に包まれながら、帝政の表舞台に留まらず、陋巷へ下野した男の命を何故、今頃になって雷声帝の遺児が付け狙うのかね」

「ガルノシュ・グリイスは、夏光帝陛下の弑逆を企てています」

「弑逆?」

 キーファンの眉間に裂傷のような溝が刻まれ、沈着な瞳を炯々たる眼光が俄かに覆い尽くした。戦後二十年の帝政は概ね順風に恵まれ、一面の焦土と化した版図は力強い復興の道程を着実に突き進んできた。尤もそれは、キーファン自身がその眼で戦後の風景の変遷を見守った上で懐いた感想という訳ではない。ミューバの大地に繁茂する錯雑した樹影は、あらゆる種類の現実を敬虔なミューベロスの耳目から遠ざけ、国情に関する噂話は、神務庁や正教会の催す会合の類に出席した高位の神官や、定期的に供物を捧げに来訪する外会の浄身派門徒の口から、断片的な形で伝わるに過ぎなかった。この禁域では、一切の政治的な事件が、夢幻の靄に梱包された壮麗な伝説のように、現実的な細部を欠いて語られる慣わしなのだ。

「申し訳ないが、その言葉を直ちに信頼することは難しい。私の耳には、それは途方もなく荒唐無稽な御伽噺に聞こえてしまうよ」

「御伽噺であるならば、こんなに嬉しいことは他にありません」

「無理にでも信じろと言うのかね。少なくとも、君の話を裏付ける具体的な証拠は、この執務机の上には何一つ提示されていない」

 帝都アルヴァ・グリイスの暗闇に轟々と焔を噴いて逆巻く権謀術数から遠く隔たった場所で、数十年に亘って清浄な禁慾の日々を紡いできたキーファンにとって、ラシルドの吐き出す血腥い言葉は禍々しく幻想的な音楽に似ていた。

「退役後、私はイシュマールで食べ物を商う生活を送って参りました。それは華美な贅沢とも、社会的な栄光とも無縁の、慎ましい日々に過ぎません。けれども、その無害な生活さえも、帝都治安本部黒衣隊の刺客によって、乱暴に踏み躙られてしまったばかりです。その背後に政務庁掌補の謀略が絡んでいることは、様々な事実が指先を揃えて示唆しています」

「黒衣隊の人間が、君の慎ましい商売を叩き壊した。それは君が殉国隊の頭目であったという事実に基づいて、演じられた事件なのかね」

「そういうことです。ガルノシュは、己の野望を阻害しかねない総ての禍根を周到に取り除こうとしているのです」

 護官長の慎重な思索を急き立てるように、ラシルドは決然たる表情を浮かべて断言した。